21話 赤の繋がり②
ビャクレンが俺の正面に立った。
近い。見上げるような距離だ。
「あなたの魔力の質……ソンオンと同じです」
俺は黙っていた。
「ソンオンを知っているでしょう」
「……知っている」
「どこで会ったのですか」
「句章で。崖の上で」
ビャクレンの顔が強張った。
「あなたが……追い詰めたのですか」
「俺が追いかけた。だが殺したわけではない。ソンオンは自分で身を投げた」
長い沈黙だった。
ビャクレンが目を閉じた。かすかに唇が震えていた。
「……あの子は怖がりだったんです」
独り言のような声だった。
「強がってばかりで、本当は誰より怖がりで……」
俺は何も言えなかった。
「あなたは同じ世界から来たのですか」
「……おそらく」
「おそらく?」
「俺はソンオンが転生者だと気づいたのは、崖の後だ。手に残った布地で分かった」
ビャクレンの目が開いた。
「布地……」
俺は懐に手を入れた。薄く滑らかな赤い布地を取り出した。この世界にはないものだ。
「これだ。ソンオンが履いていた」
ビャクレンの手が伸びてきた。震えていた。
受け取った瞬間、ビャクレンは布地を胸に抱いた。
声は出なかった。
ただ、膝から崩れ落ちた。
俺は何も言えなかった。言葉が見つからなかった。ただそこに立っていた。
燭台の光が揺れていた。甘い香の匂いが漂っていた。
ビャクレンが泣いていた。声も出さずに、ただ泣いていた。
どれほどの時間が経っただろうか。
ビャクレンがゆっくりと立ち上がった。目が赤かった。だがその目に、さっきとは違うものが宿っていた。
「……あなた、名前は」
「ユウだ」
「ユウ」
ビャクレンが俺の名前を口にした。その響きが妙に静かだった。
「私はビャクレン。あなたも知っているでしょうけれど」
「知っている」
「ソンオンから聞きましたか」
「聞いていない。崖の上でソンオンが少し話してくれた。それだけだ」
ビャクレンが布地を見つめた。
「あの子は……何を話しましたか」
「天に選ばれた者がいると言っていた。俺のことをそう呼んだ」
「そう……」
ビャクレンが小さく笑った。泣いた後の笑いだった。
「ソンオンらしい。大げさなんです、あの子は」
俺は黙っていた。
「同じ世界から来たということは……あなたも元の世界のことを覚えているのですね」
「ああ」
「スマホ、知っていますか」
俺は少し驚いた。
「知っている」
「コンビニは」
「知っている」
ビャクレンが目を細めた。今度の笑いは、さっきとは違った。
「久しぶりです。同じ言葉が通じる人と話すのは」
その一言が、俺には刺さった。
この世界に来て元の世界の言葉が通じる相手が、敵国の教祖だとは。
「ソンオンとは……何年一緒にいたんだ」
「この世界では10年近く。元の世界では……3年ほどです」
「3年か」
「女子高で出会いました。変な子だったんです。最初から」
ビャクレンがまた布地を見た。
「この下着……私と揃いで買ったんです。赤いのが好きだと言って」
俺は黙って聞いていた。
「あの子、死ぬ前に怖くなかったかな。一人で……」
声が途切れた。
燭台の光が揺れた。
ビャクレンが俺を見た。
「ユウ。今夜、ここに残りなさい」
俺は答えなかった。
答えられなかった。
ビャクレンが一歩近づいた。
「……お願いです」
甘い香の匂いが漂っていた。断ることが出来なかった。そうするとビャクレンを深く傷つけるような気がした。俺はぎこちない手でビャクレンの背に手を回す。赤い布地が床に落ちた。
燭台の光が、ゆっくりと揺れていた。
◆
気づいた時には夜が明けていた。
しばらく天井を見ていた。
広固の天井だった。見慣れない模様が施されていた。
何かが変わった気がした。何が変わったのかは、うまく言葉にできなかった。ただ、隣にビャクレンの温もりが残っていた。
俺はゆっくりと起き上がった。
ビャクレンはすでに起きていた。窓の外を見ていた。夜明けの光が横顔に当たっていた。
「……行きなさい」
俺を見ずに言った。
「ソンオンのことを話してくれてありがとう」
それだけだった。
俺は何も言えなかった。部屋を出た。
◆
廊下を歩いていると、アイとリンシが待っていた。
示し合わせていたわけではないだろう。だが二人とも、そこにいた。
アイが俺を見た瞬間、鼻をわずかに動かした。
リンシも同じだった。
沈黙が落ちた。
「……何の匂いだ」
アイが低い声で言った。怒りを抑えた声だった。
「香だ。部屋に香が焚いてあった。それだけだ」
「そうか」
アイの目が細くなった。信じていない目だ。
「何もないよ。本当に」
リンシが少し間を置いてから口を開いた。
「……そうですか」
微笑んでいた。だがその目だけが笑っていなかった。
俺は全力で否定した。否定し続けた。
アイは無言で歩いていった。
リンシはもう一度だけ俺を見た。それから静かに視線を外した。
その顔が、一番堪えた。
◆
講和の細かい条件を詰めるのに数日かかるという。広固での滞在が続いた。
手持ち無沙汰になった頃、リンシが言った。
「近くに温泉があるようです。商人から聞きました」
「温泉?」
「体が固まってしまいますわ。皆さんで行きましょう」
誰も反対しなかった。俺は正直、何でもよかった。昨夜からずっと頭が重かった。
温泉は広固の城外、山の裾野にあった。小さな湯屋だったが、湯気が立ち込め、匂いが独特だった。
湯に浸かった瞬間、体から力が抜けた。
眠い。
あまりにも眠かった。
ボクシが何か言っていた気がする。カムキが笑っていた気がする。
気づいたら広間の長椅子に横になっていた。
天井が見えた。
それから何も分からなくなった。
◆
女湯の方では、アイとリンシが湯船に並んでいた。
湯気が立ち込めている。石造りの浴槽に、二人だけだった。
しばらく無言だった。
リンシがさりげなく視線を向けた。それからさりげなく自分を見た。
「……あら」
「何だ」
「いえ……私の方が大きいですわね」
アイの目が細くなった。
「関係ない」
「そうですか?男性はそういうところを見ますわよ」
「見させない」
「ふふふ。でも私の方が大きいのは事実ですわ」
アイが湯を手ですくってリンシに向かって跳ねた。
「私の方が若くて肌がきれいだ。それの方がよっぽど大事だ」
「まあ。確かに肌は綺麗ですね」
リンシが素直に認めた。アイが少し拍子抜けした顔をした。
「……お前が素直に認めるとは思わなかった」
「事実は事実ですもの。でも大きさも事実ですわ」
「……っ」
また湯が跳ねた。リンシが笑った。
しばらくして、湯気の中に沈黙が戻った。
リンシが少し真顔になった。
「……あなたも感じましたか。今朝のユウの匂い」
アイが黙った。
「感じた」
「私も」
また沈黙。
「……あの変態」
アイが低く言った。
「本当に」
リンシが静かに返した。
「ビャクレンと何かあったと思いますか」
「……あったと思う」
「私もそう思います」
湯が揺れた。
「何もないよとか言って。あの顔で」
「全力で否定していましたね」
「馬鹿だ」
「馬鹿ですね」
二人の声が重なった。
少し間があった。
それからほぼ同時に、小さく笑った。
湯気の中で、アイとリンシが並んでいた。
「……ユウは本当に馬鹿ですね」
「そうだな」
アイが珍しく素直に頷いた。
「でも」
リンシが続けた。
「嫌いになれないのが、また馬鹿みたいでしょう」
アイは何も言わなかった。
湯船の中で、少しだけ顔を赤くした。
それは湯の熱さのせいだけではなかった。




