126話 従者の正体
上庸に籠る夏軍は一万五千。対して東晋軍は俺の軍が合流したことで三万近い兵力になっている。だが、この倍の兵力で囲まれていても、カクレンは撃って出て来ることも想定しなければならない。俺はシャカイ、シュクユウと軍議を開いた。
「籠城をする性格ではないのか」
「あの女はそうだろう。防備を怠るな。夜襲にも警戒しろ」
「ええ、分かっているわ。同じことはさせないわ」
カイオンが軽い食事を持ってきた。ちょうど小腹が空いていたころであった。熱い湯に小麦の塊を入れた簡素なものであったが、体を温めた。さらに俺たちは配置について協議した。襄陽に貼りついている夏軍が戻ってくる可能性もある。カンシュクなら追撃するであろうが、迎撃の構えも必要であった。
襄陽の方角にはシュクユウが一万五千で陣を組んだ。カクレンに雪辱しようと気負っているのが気がかりであった為、後方に下げる形にした。上庸の方には俺とシャカイが向き合った。夏の援軍が来ても、カンシュクたちが現れるまで持ちこたえることは出来るだろう。
「無理な攻城はしない。敵の援軍を打ち破ってからだ」
やがて、襄陽から夏の軍七万がこちらへ向かっているという知らせが届いた。カンシュクも五万の兵を率いて追撃しているようだ。
「来るぞ。カクレンはおそらく撃って出て、俺たちを挟み討ちにしようとしてくる。カクレンを抑え、逆に敵の援軍をシュクユウとカンシュクで挟み討ちにするのだ」
俺はじっとカクレンが出て来るのを待った。太陽が真上に来て、そして西に沈んでいった。何も起きなかった。夏の援軍は到着し、上庸の前に展開した。
「……カクレンらしくないな。いったいどういうことだ」
「分からん。もうすぐカンシュクが来る。布陣を見直そう」
東晋八万と夏八万五千が上庸で睨みあう格好になった。
◆
その頃、カクレンは寝室でのたうち回っていた。あの手紙を読んでからというもの、頭が割れそうであった。
(東晋に降伏しろ)
その文字だけがいつまでも脳裏に焼き付いて離れず、油断すると本当に東晋に降伏せよと言ってしまいそうであった。
「……おのれ、ユウ……妾をこれほどまで苦しめるとは」
洗脳魔法の使い手であるカクレンが、符術にいつまでも苦しめられている。カクレンは苛立ちがつのり、近くにあるものを手当たり次第、払いのけた。割れた杯、こぼれた水、そして自身が身に着けていた衣さえも引き裂き投げ捨てるほどであった。
「カクレン様……そのようなお姿ではお風邪を引きます……せめてこれを……」
カクレンは侍女が差し出した衣をずたずたに引き裂いた。それでも気持ちは収まらず、侍女を引き倒し首を絞めた。侍女の目に涙が浮かび、体が痙攣している。やがてこと切れた時、床はビショビショに濡れていた。その光景をみた他の侍女はカクレンに近づくことをしなくなった。カクレンは一人、昼も夜も激しい頭痛と「降伏しろ」という呪いのような言葉に苛まれるのであった。
◆
カイオンは焦った。何度も東晋の配置を伝えたが、カクレンからは何の反応もなかった。東晋の兵糧は潤沢だ。このまま対峙を続けると干上がるのは夏の方が先であった。やがて、夏の間者の接触もなくなっていた。東晋の兵糧の保管場所の地図を作っていたが、それを渡す機会がなかった。
「こうなったら自ら渡しにいくしかない……」
カイオンは思い詰め、ユウが眠りについたのを見計らって本陣を出た。夜警の兵たちはカイオンを見ても誰何しなかった。ユウの従者であるカイオンが軍中を歩いていても、特に不思議はないのだ。カイオンは堂々と進み、夜警の兵たちが見ていない隙に、茂みに入り込んだ。
新月だ。辺りは暗く、僅かな星明りだけが頼りだ。だが、カイオンは間者の中でも凄腕の存在だ。このような暗闇を進むのは何でもないことであった。
「何者だ!夏の間者か!」
カイオンはその声を聞き、ハッとした。声の主は分かっている。駆けた。そして走りながら剣を抜いた。
「待て!逃がすか!」
茂みを抜け、川辺に出た。そこで初めてカイオンは振り返り剣を構えた。
跳躍。
カイオンを追ってきた影を斬った。
手ごたえがない。逆にカイオンの軍袍が僅かに裂けた。
「貴様は……カイオンか」
「セキカ……」
セキカは、カイオンが何故ここにいるのかと考えるより、その身体能力に驚いた。全力で追ったのに追いつけなかった。さらに跳躍してきたところを確実に斬ったはずであった。だが、剣先が僅かに衣服を掠めただけであった。
「カイオン……いったいここで何をしている」
「……」
聞くまでもないことだとセキカは思ったが、聞かざるをえなかった。ユウの従者なのである。それがあろうことか夏の間者だとは信じられなかった。
「ふん。バレてしまったか。こうなったらお前を討って夏に戻るまでだ」
「貴様にそれが出来るのか」
セキカは剣を構え直し、カイオンと向かい合った。隙がなかった。これまで出会ったどんな刺客より強いと感じた。
カイオンが一歩踏み込んだ。それに合わせてセキカは一歩下がる。
「わたしが気圧されているだと……」
そんな経験は初めてであった。なおも、じりじりと下がってしまった。
「どうした、セキカ」
カイオンに薄っすら笑みが浮かんだ。セキカは気合を入れ踏み込み、剣を薙いだ。
カイオンの剣がセキカの剣をすり抜け、顔に迫ってきた。とっさに身を捻ったが、頬を浅く裂かれた。返す刃が、今度はセキカの腰の布を断つ。
交錯した。
セキカは膝をついた。額からの血が、片目を塞いでいる。剣の腕では、この男に届かない。それは、交えた数合で嫌というほど思い知らされた。
——使うしかない、か。
セキカは奥歯を噛んだ。あの術だけは、使いたくなかった。暗殺者としての矜持が、それを最後の最後まで拒んでいた。だが、ここで犬死にするよりはましだ。
「ふん。なかなか、そそる格好だな」
カイオンの剣先が断ち切った腰布が、はらりと地に落ちる。だがセキカは、隠そうともしなかった。むしろ、ゆっくりと顔を上げ、潤んだ瞳でカイオンを見つめた。
「……どうした。早く、殺さないの」
声が、変わっていた。低く、湿り気を帯びた、絡みつくような声だ。セキカは唇を半ば開き、ふっ、と熱い吐息をカイオンへ吹きかけた。
その瞬間、カイオンの体に異変が起きた。
「な……なんだ、これは……っ」
頭の芯が痺れる。血が、下腹へと逆流していく。抗いがたい熱が突き上げ、股間が、はち切れんばかりにいきり立った。剣を握る手が汗ばむ。目の前の暗殺者の濡れた瞳から、視線が、外せない。
「ぐ……っ、貴様、何を、しやがった……!」
「わたしの吐息を吸った者は、こうなるの。みっともないでしょう」
セキカの声は、もう冷え切っていた。
カイオンの意識が、たった一点に引きずられていく。殺さねばと頭では分かっているのに、体が言うことを聞かない。剣先が、揺れた。
——そこだ。
セキカは地を蹴った。
カイオンが我に返った時にはもう遅い。乱れた剣は、空を斬っただけであった。すれ違いざま、セキカの刃が、カイオンの胴を深々と裂く。
「ぐ、あ……っ!ば、馬鹿な……この、俺が……」
「気を抜いたわね。最強の暗殺者を、見くびったのよ」
あの凄腕の間者が、勝利を目前にして、最も間抜けな姿で膝から崩れ落ちていく。
セキカは振り向きざま、悶絶するカイオンの胸に、剣を深々と突き立てた。そして「わたしに、こんなはしたない真似をさせて」と、苛立ちまぎれに、もう一突きした。
「ああ……カクレン様……申し訳、ございません……」
カイオンは、東晋の兵糧の場所を記した地図を握りしめていた。それを抜き取りながら、セキカは、夏の間者だと見破れなかった己を恥じた。そして——使わずに済めばよかった術を吐いた唇を、手の甲で、乱暴に拭った。




