124話 抉られる心
エンは慌てて剣を持ち、飛び出した。鎧を着ける暇もなく、軍袍のままであった。
「何があった!」
「敵による夜襲です!エン様、お逃げください!」
エンは辺りが火に包まれていく状況に狼狽した。まさかあの激闘の後で、カクレンが夜襲を仕掛けてくるとは思いもよらなかった。
「ふふふ。なんだ、寝ていたのか?腕が落ちただけでなく、戦場の勘も鈍ったか」
炎の中から、カクレンが現れた。東晋の旗は焼け落ち、兵たちは逃げ惑っている。
「カクレン!よくも!」
「ハクエンよ。お前とは縁が無いわけではない。どうだ、妾の配下にならぬか?」
「だ、誰が貴様の配下などに!」
エンは魔力を振り絞り、水流剣を頭上で回転させた。剣先からまるで噴水のように水が降り注ぎ、本陣の火を消していく。
「無駄なことを。そんなに魔力を使ってよいのか」
「黙れ!余計なお世話だ!」
兵を見捨てることなど、エンにはできなかった。火を払い、逃げる兵に道をつくる。そのたびに、体の芯から力が抜けていくのが分かった。それでも、手を止められなかった。
エンは水流剣を構え、カクレンに突進した。振り下ろす。だが、剣の水流は細く、いつものような勢いがなかった。
「哀れなものよ……」
カクレンが鉄鞭を振ると、エンの水流剣は真っ二つに折れてしまった。
「……そんな」
鉄鞭が、エンの首筋を捉えた。
◆
本陣が奇襲を受けた。シュクユウは跳ね起き、状況を確認させた。炎は本陣の旗を焼き、もはや救援は困難であった。
「エンさん……」
シュクユウは「慌てるな!」と叫び、陣の立て直しを図った。どうやら夏軍は本陣だけを蹴散らし、さっと引き下がったようであった。兵たちがシュクユウの陣に続々と逃げ込んでくる。だが、朝になっても、エンは戻ってこなかった。
焼け落ちた本陣を捜索させたが、エンの姿は無かった。
「まさか……カクレンに、捕まってしまったのか」
シュクユウはがっくりと崩れ落ちた。エンに助けられたのに、救援に向かえなかった自分が情けなかった。涙が伝い、太ももにポタポタと落ちていった。
◆
「くっ……ひと思いに殺せ!」
エンは上庸の牢に放り込まれていた。冬の石畳は冷たく、軍袍越しの肌に、刺すような痛みを与えた。
「同じことを言わせるな。お前はユウを誘き寄せる餌だ。殺しはせぬ」
カクレンは鉄格子の向こうから、ゆっくりと牢の中へ入ってきた。燭台の灯りが、その白い頬を赤く染めている。
「妾の婿候補を殺しておいて、よくも吠える。……お前、何故ケイを殺した」
「貴様などに、話すことは何もない」
「言わずともよい。だが――大方、こうであろう」
カクレンは唇の端を吊り上げた。
「ケイはお前を愛さなかった。最後の夜、別の女の名を呼んだ。違うか。お前はケイを愛していた。仇のはずの男を、いつの間にか愛していた。なのにその男は、最後までお前を見てはいなかった。……だから刺した。愛されなかった惨めさに、耐えられなんだのだ」
エンの息が、止まった。
当て推量のはずだった。カクレンはあの夜のことなど知らない。なのにその言葉は、エンの最も柔らかい場所を、寸分の狂いもなく貫いていた。剣を握った手の震え。ケイの胸を貫いた瞬間の、悲しみとも怒りともつかぬ熱。それを今でも、エンは夢に見る。
「……ち、違う」
声が、掠れた。
「ふふ。図星のようだな」
カクレンの両手が、エンの頬を挟んだ。指先から、金色の光が滲み出す。
「言葉で堕とすほど、妾は生易しくない。妾の魔法はな――心を、快楽で溶かすのだ。あのユウですら、危うく呑まれかけた」
その瞬間、エンの体の芯を、甘く痺れるような熱が走り抜けた。
「っ……!」
金色の魔力が、肌から、こめかみから、忍び込んでくる。それは抗いがたい甘さで神経を撫で上げ、意志を、思考を、とろとろと溶かしにかかった。エンは怖気を震った。これだ。これがユウを呑みかけた魔法。快楽で人の芯を奪い、作り変える、カクレンの十八番。
「いや……やめ……っ」
体が痺れ、力が抜けていく。鎖に縛られた手が、無力に痙攣した。境界が曖昧になる。どこまでが自分の感覚で、どこからがカクレンに植えつけられたものなのか。おぞましい。なのに、振り払えない。
《溶けてしまえ。委ねれば、楽になる。妾のものになれ》
声ではなかった。エン自身の感覚の只中に、直接湧き上がる甘い衝動。委ねたい。楽に――
崩れかけた意識の縁から、あの夜が溢れ出した。ケイの胸を貫いた手の感触。別の女の名を呼んだ唇。「愛されなかった」という傷が、魔力に増幅され、何倍にも膨れ上がる。
《見ろ。お前は誰にも愛されぬ。だが妾だけは、お前を拾ってやる。ユウなどよりも、ずっと甘い悦びを、その身に教えてやろう》
エンの意志が、ぐらりと傾いだ。委ねた方が、楽だ。この苦しみから、解放される。指の先まで、力が抜けていく――
その時。
溶けゆく感覚の、最も底のところに、ひとつの温もりが消えずに残っていた。
ユウの腕の強さ。「エン」と呼ぶ、あの不器用な声。それは、快楽ではなかった。もっと静かで、もっと深い、確かなもの。
――ああ、そうか。
エンは気づいた。カクレンが流し込んでくるこの甘さは、どれほど強烈でも、所詮は作り物だ。本物の温もりを知った心には、それが紛い物だと、はっきりと分かる。
「……ち、がう」
エンは奥歯を噛みしめた。
「あなたの……快楽なんて……ユウのくれた温もりの、足元にも……及ばないっ」
その一言を芯にして、エンは崩れかけた意志を組み直した。温もりという一点に縋りつき、押し寄せる金色の甘さを、内側から押し返していく。
カクレンの魔力が、そこで滑った。掴もうとしても掴めない。溶かそうとしても、溶けない。エンの心の最も深いところには、カクレンの快楽の決して届かない、絶対の聖域があった。
金色の光が、ぱぁんと爆ぜて霧散した。
「は……はぁっ……はぁっ……」
エンは荒く息をつき、現実の輪郭を、一つずつ取り戻していった。
「な……何故だ。何故、堕ちぬ……!」
カクレンの声が、初めて震えていた。
エンは顔を上げた。涙に濡れた瞳が、まっすぐカクレンを射る。魔法で繋がった糸は、逆に、カクレンの内側を、エンに見せていた。
そこには、何もなかった。
「……あなたは」
「黙れ」
「あなたは、誰からも、本当には愛されたことがないのね」
カクレンの手が、びくりと止まった。
「だから、奪うことしか知らない。快楽で人を縛ることしか。……与えられたことがないから、与え方を知らないのよ」
「黙れと言っている!」
カクレンの鉄鞭が、牢の石壁を打ち砕いた。砕けた石が飛び散る。だが、エンはもう震えていなかった。
「あなたは、誰も従えられない。わたしも、ユウも。……ケイを刺したわたしにすら、ユウは温もりをくれた。奪うことしか知らないあなたには、それが一生、分からない。可哀想な人」
「……っ」
カクレンの顔から、表情が抜け落ちた。怒りでも、嘲りでもない。一瞬、ひどく幼い、迷子のような顔が覗いた。だがそれはすぐに、冷たい仮面の下へ隠される。
「……いいだろう。お前は餌だ。それで十分だ」
カクレンは背を向けた。
「リュウユウに文を送る。ハクエンを返してほしくば、一人で来い、とな。あの男は、必ず来る。お前のような女のために、のこのこと」
「ユウは来ない。あなたの思い通りにはならないわ」
「ふん。強がりを。……精々、それまで祈っているがいい」
牢の扉が、重い音を立てて閉まった。
闇の中、エンは冷たい石畳に座り込んだまま、まだ消えぬ手の痺れを抱えていた。それでも、心は折れていなかった。
(ユウ……来なくていい)
来れば、カクレンの思う壺だ。だが――あの男のことだ。きっと来る。だから、それまで、持ちこたえる。
エンは奥歯を噛み、目を閉じた。あの温もりを、けっして手放すまいと。
燭台の灯りが、ひとつ、また揺れた。




