117話 新たな道
目を覚ました。コハンはここが地獄かと思った。だが、地獄にしては様子がおかしい。まるで部屋のようだ。そして何故か分からないがゆっくりと揺れている。
毒をあおったはずだ。「死を賜る」そう手紙に書いてあった。ユウがコハンに自死を促した。そう思っていた。
「お目覚めのようね。お色気軍師さん」
その声にコハンはハッとして体を起こすと、リンシの姿があった。
「ここは...わたしは死んだはずでは。あなたは何故ここにいるの?」
「あなたは死んだわ」
ユウから与えられた毒は最初から致死量に達するものではなかったのだろう。次第にコハンは理解が追いついてきた。
「そういうことなのね...わたしを死んだことにして、あなたに身柄を引き渡したということね」
「理解が早くてなによりだわ。あなたの犯した罪は大きい。でも、ユウにはあなたは殺せない。だから死んだことにして、わたしがあなたの面倒を見ることにしたの」
「余計なことはしないで。早くわたしを殺しなさい」
リンシはコハンに近づくと、バシンと強烈な平手打ちをした。
「あなた何様のつもり。あなたに死ぬ権利はないわ。ユウの気持ちを分かろうともしないで」
殴られた頬以上に心が痛かった。生きている。生きろ。それがユウの願いだと気付き涙を流した。
「心配しなくていいわ。子供はアイに預ける。何の心配もいらないわ」
「リンシ......実はあの子は......」
「止めなさい。言わなくていいわ。それに気づくものもいるかもしれないけど、言うと不幸な人が増えるわよ」
「......ありがとう。リンシ」
「礼には及ばないわ。あなたには商人として、それこそ死ぬまで働いてもらうわよ」
部屋を出た。揚子江は日差しを反射し、光り輝いていた。コハンは死んだ。そして新しい人生が幕を開けた。
◆
コハンがいなくなった。心にぽっかり穴が開いた。公にはコハンはリュウキの企ての黒幕として処断したことになっている。リンシが上手くやってくれた。今頃、南へ向かう洋上であろう。
「お前さん、寂しくなったからといってエン様に手を出すなよ」
「おい、俺がそんなに助平に見えるのか」
「助平だろ?」
「......否定はしない」
「ところで、たまには建康に戻ったらどうだ」
「レイセキとリュウキが死に、荊州は不安定だ。ここを離れることは出来ない」
「だからこそだ。一度、ジョセンシたちとしっかり話し合ってこい」
俺はドウサイに荊州を託し、フリョウとともに建康へ向かった。決めなければいけないことが山積していた。
◆
「いろいろと大変だったわね」
建康を通り過ぎ、俺は先に京口のアイの実家に立ち寄った。娘は言葉を話すようになったが、俺を見知らぬおじさんだと思っているのか、アイの足元に隠れてこっちを不安げに見ていた。
「あなたのお父さんよ」
アイはそう言うと娘を抱きかかえ、俺に渡した。久々に抱く子は以前よりずっと大きく重たくなっていた。
「ギリュウも元気よ。まあ、物心つく頃には本当の母のことなど覚えてないでしょうね」
「アイ。済まなかった」
「本当ね。コハンに溺れるなんてね。わたしがいるのに」
「.....いや、それはすぐに会えないし......」
「いいのよ。わたしはあなたが何をしようと嫉妬なんてしないわ。あなたには誰か側にいて寄り添ってくれる人が必要なのよ」
「よく分かっておいでで」
「調子に乗るな。この馬鹿やろう」
アイが俺の腹に拳を突き立てた。びっくりして娘が泣き出し、慌ててアイは俺から娘を取り上げあやしていた。俺は笑った。本当の幸せがここにあると思った。
◆
建康。
俺はフリョウとともに皇帝に謁見した。相変わらず、目の焦点が合っておらず、言葉は意味不明であった。以前と違うのは、居眠りするようになったことだ。
差し障りのない謁見が終わった。
「ユウ。お前さんは皇帝をどう見る?」
「どう見るとは?」
「居眠りしていただろう。もう長くないと思う」
「え!?そんな歳じゃないだろ」
「ああいう障害を持った人間は短命なのだ。皇帝が死んだ後のことも考える時がきたのだ」
「お前!何を言ってるのだ」
「建康にお前を連れて来たのは今の皇帝の状態を見させる為だ。次の皇帝を誰にするか。誰が誰を皇帝にしようとしているか。見定めることだ」
「俺は将軍だ。そこは専門外だ」
「違う。お前さんは今や東晋最大の武力だ。お前さんが誰につくかで政局は大きく変わる」
まるで実感がなかった。俺はいつの間にか、かつてのカンゲンのような立場になったのかと思った。フリョウは言外に武力を背景に政権を握れと言っているようなものであった。
まもなく皇帝アンテイが崩御した。眠るようにひっそりと息を引き取った。跡継ぎを誰にするか決めないままの崩御であった。




