105話 弘農の戦い②
「そうであったか......リュウユウが居ないのか」
アリは間者の報告を受け、東晋軍が何故動かないのか、魏の攻撃に対して何故こうも簡単に押されているのかを理解した。
「愛する者を選ぶとはな......」
戦より妻を選んだ。人の上に立つ者にはふさわしくないのかもしれない。だからこそアリはリュウユウにカクレンの婿になって欲しかったのだ。ヨウチョウやヨウヘイのような歪んだ関係ではない。カクレンはリュウユウを支配したいと言った。本当に必要なのは側で支えてくれる愛情なのだ。それは上下の関係ではなく対等なものだ。カクレンも薄々気づいているはずなのだ。
「潼関へ引き上げるぞ......つまらない戦だ」
「よいのですか。それでは大同は諦めることになります」
「仕方ない......どのみち東晋があの様では勝ち目はない」
シトウはアリを抑えるつもりで布陣していたが、撤退していくのを見て舌打ちした。
「ボクスウにおいしいところを取られたか」
位置的にも夏軍の方が高所であり、シトウの方から仕掛けるつもりは無い。ボクスウの戦にアリが介入してきたら全力で止めるのがシトウの役割であったのだ。それにアリの撤退は見事で隙がない。シトウは追撃することが出来なかった。
◆
「夏軍が撤退していくぞ!」
「全く戦ってないではないか!」
東晋の兵たちに動揺が走った。ボクスウの猛攻に崩されかけている。夏軍が横槍を入れてくれば、東晋も立て直すことが出来るのだ。それが、一戦も交えず後退していく様子に兵たちは心が折れかけていた。
「.....すまない。わたしが突っ込んだばかりに」
「あなたは大将に向かないわね...それはともかく撤退しないと全滅するわよ」
今、この場に冷静に判断出来るのはコハンしかいない。フリョウは軍師と言っても、実戦向きではないことは既に露呈している。
「カイギョク.....チンアク......あなた達の命をくれるかしら」
「はい!喜んで!」
◆
東晋軍の撤退が始まった。
エンが先頭でケイシャンが続く。おまけだがフリョウもここにいる。戦場にブクレンの姿がない。コハンはおそらく回り込んでこちらの退路に潜んでいると読んでいた。ならば必要なのはエンとケイシャンの騎馬隊による突破力だ。
続いて歩兵隊の救出だ。なんとかドウサイが踏みとどまっているが時間の問題だ。本陣の中で動けるのは水軍のカイギョクとチンアクしかいない。
コハンの策を告げられ二人は息を呑んだ。だが、やらないとボクスウを止めることは出来ない。歩兵隊は崩壊をはじめ、逃げ出す兵も出始めている。
「姉御......俺たちが死んでも、俺たちのことは忘れないでください」
コハンは頷き、退き鐘を叩いた。そして自身も馬に乗り、エンたちを追った。ドウサイはそれを聞き撤退を始める。ボクスウが勢いを付ける為に離れた隙をつき、兵を散開させた。ドウサイは旗を持ち目印となって本陣に向かって走る。
「やっと諦めたか。しぶとい奴だ」
ボクスウは想像以上のドウサイの粘りに舌を巻いていた。だが、もう終わりだ。ドウサイの背を討ち、東晋の本陣を落とす。
「ドウサイ!あとは俺たちに任せろ!」
「!?お前たちが殿をするのか!」
水軍の将が殿をするなど聞いたことがない。
「......死ぬなよ!」
ドウサイの旗を追いかけていたボクスウは東晋の本陣に切り込む。カイギョクとチンアクの水軍が立ちふさがるが、あっという間に蹴散らされた。
「なんだ!貴様らは!舐めているのか!」
明らかに銛やさすまたといった水上の装備にボクスウは呆れた。歩兵隊の大男のような勇者はもう残っていないのかと思った。ボクスウの兵は東晋の旗を斬り落としていく。水軍の兵も抵抗もほどほどに散っていった。
「退却の間の時間稼ぎにもなっていないぞ!」
だが、ボクスウは気付いた。ふと鼻についた油の匂い。
「お前は姉御の策に嵌ったんだ。ここで死ね」
チンアクはそう言って松明の火を落とした。
「しまった!」
油に引火し、瞬く間に燃え広がる。東晋の本陣に飛び込んだボクスウと兵たちは一瞬で炎の壁に囲まれた。
「......お前たちも逃げ場は無いぞ!」
「覚悟の上だ!」
ボクスウは矛を構える。カイギョクとチンアクを討ち脱出するのは出来るだろう。だが、この状況では無傷とはいかない。ボクスウも覚悟を決めた。
「うおおおおおおお!」
突如、カイギョクがボクスウに飛びついた。ボクスウは咄嗟に矛を突き立て、カイギョクの腹を貫く。
「カイギョク!」
チンアクの悲鳴にカイギョクは振り向き笑った。
「チンアク......逃げろ。ここは俺が食い止める」
「何を言ってるのだ!兄弟!」
カイギョクはボクスウの矛をがっしりと掴んだ。そしてボクスウに抱きついた。
「貴様!何をする気だ!」
「お前も道連れだ......チンアク早く行け!」
「おい!何を言ってるのだ!俺も一緒に死ぬ!」
「だめだ!お前は長安攻めで大功を上げた!ここで死ぬことは許さん!」
そう言うとカイギョクは片手で油の入った筒を取り出し、頭からふりかけた。ボクスウの顔はカイギョクの意図を悟り、焦りと恐怖で歪んでいる。
そして火に包まれた。
「うわああああああ!兄弟!」
チンアクは涙を流し、炎で崩れ落ちていくカイギョクに背を向け走り出した。敵将を道連れにした。走りながら、こうする必要があったのか何度も反芻した。
巨大な炎が空に立ち昇る。あの状況でもボクスウは切り抜けたはずだ。カイギョクが捨て身の覚悟で飛びついたから魏の追撃を止めることが出来た。それが分かっただけに、チンアクの心は重く沈んだ。
その役割はカイギョクでなく、自分でもよかったのではないかと。




