101話 そして夜が明ける
未央宮の一室。灯りは燭台が一つだけ。薄暗い部屋の中央に寝台が置かれていた。
俺は入った瞬間、後悔した。来るべきではなかった。
「来てくれたのね。婿殿」
カクレンは寝台の端に腰掛けていた。鎧を脱ぎ、薄い絹の衣を纏っている。肩が露わになり、鎖骨から胸の谷間にかけて、燭台の灯りが滑るように照らしていた。
「座りなさい」
俺は寝台の反対側に腰を下ろした。距離を取ったつもりだったが、カクレンはすぐに隣に移動してきた。
「怖がらなくていいのよ」
「怖がっていない」
「嘘。体が震えているわ」
カクレンの指が俺の腕に触れた。冷たかった。だが、触れた瞬間、金魔法の波動が流れ込んでくるのを感じた。精気を吸い取る。ヨウコウもヨウヘイも、この手で衰弱させられた。
だが、腹の中でフリョウの符が反応した。波動が弾かれる。カクレンの目が一瞬、見開かれた。
「......ほう。弾いたのね。面白い男だわ」
カクレンは俺の顔を両手で挟み、顔を近づけてきた。金色の瞳が俺を覗き込んでいる。
吸い込まれそうになった。意識が遠のきかける。だが、符が再び波動を弾いた。俺は意識を取り戻す。
「......何度やっても効かないわね。本当に鋼の意思なのね」
「俺には妻がいる。アイという女だ。子供もいる。だから——」
「知っているわ」
カクレンは俺の言葉を遮った。
「アイという治癒士でしょう。娘が一人。名前はコウ。あなたが溺愛しているとも聞いているわ」
「なら分かるだろう。俺は——」
「関係ないわ」
カクレンの目が据わった。冗談でも駆け引きでもない。本気の目だった。
「わたしが欲しいのはあなたよ。妻がいようと、子がいようと、関係ない。あなたが欲しいの」
衣が肩から滑り落ちた。カクレンの裸体が燭台の灯りに浮かび上がる。筋肉質でありながら柔らかな曲線を持つ体。戦場で受けた傷跡がいくつもある。
カクレンが俺の胸板に手を当て、押し倒した。唇が首筋に触れ、金魔法の波動が全身を襲う。符が弾く。弾くたびにカクレンの息が荒くなっていく。
「効かない......なぜ......こんなの初めて......」
カクレンの手が俺の帯を解いた。俺は抵抗しようとしたが、カクレンの体が密着し、熱い肌の感触が判断力を奪っていく。符の効果がゆらいだ。一瞬、意識が飛びかけた。
(だめだ......落ちるな......)
歯を食いしばった。アイの顔を思い浮かべた。コウの泣き顔を思い浮かべた。意識が戻る。だが、カクレンの攻勢は止まらない。
「あなたは......わたしを拒むの......こんなにも求めているのに......」
カクレンの体が激しく震え始めた。金魔法が暴走しているのか、部屋の空気が熱くなっていく。カクレンの爪が俺の肩に食い込んだ。痛い。だが、その痛みが意識を繋ぎ止めた。
再び符の効果が揺らぐ。今度は長かった。カクレンの金色の瞳が視界を埋め、俺の意思が溶けていくのを感じた。もう少しで落ちる。あと一瞬で——
「あっ......!」
カクレンの体が大きく仰け反った。声が漏れ、全身が痙攣するように震えた。爪が俺の肩から離れ、カクレンはそのまま俺の上に崩れ落ちた。
荒い息が俺の胸にかかる。カクレンの体から力が完全に抜けていた。
先に果てたのだ。
俺の精気を吸い取れないまま、自分だけが頂に達してしまった。カクレンに取って、こんなことは初めてであった。常に支配する側であった女が、支配できないまま自ら崩れた。
俺は天井を見つめていた。心臓が破裂しそうなほど鳴っていた。符の効果はもう残り僅かだった。あと数秒遅ければ、俺は落ちていた。
カクレンは俺の胸に顔を埋めたまま、しばらく動かなかった。やがて、掠れた声で言った。
「......なぜ......わたしを抱かないの......」
「......」
「わたしは......こんなにも無様なのに......」
俺は何も答えられなかった。体を起こし、カクレンをそっと寝台に横たえた。衣をかけてやった。カクレンは目を閉じていた。涙が一筋、頬を伝っていた。
俺は軍袍を整え、音を立てずに部屋を出た。朝はまだ来ていない。夜明け前の空気が冷たく、火照った体を冷やしていく。
振り返らなかった。振り返ったら、戻ってしまいそうだった。
◆
カクレンは目を覚ました。隣にユウの姿はなかった。寝台は冷たくなっている。とうに立ち去ったのだ。
体を起こした。自分が何をしたのか、何をされたのか、思い出すと顔が熱くなった。あの男は最後まで自分を抱かなかった。わたしの魔法を弾き、わたしの体を拒み、そしてわたしだけが無様に果てた。
「......屈辱だわ」
カクレンは拳を握った。涙が出てくるのを堪えた。堪えきれなかった。
嬉しかったのだ。初めて魔法が効かない男に会えて。初めて触れても衰弱しない体を感じて。だからこそ全てを曝け出した。それなのに拒まれた。
嬉しさが悔しさに変わった。悔しさが怒りに変わった。怒りが憎しみに変わっていく。
「リュウユウ......」
カクレンは鉄鞭を握った。手が白くなるほど力が込められていた。
「次に会った時は......必ず殺す」
近習が部屋の外に控えていた。中から出てきたカクレンの目を見て、全てを察した。
「天水に帰るわ。ここにいる理由はない。北に転じて魏を討つ。あなたはわたしの言葉をあの男に伝えなさい」
「......かしこまりました」
夏の軍は長安を去った。
◆
「......どうだった」
フリョウが恐る恐る聞いてきた。
「......何もなかった」
「本当か!?符が効いたのか!?」
「ギリギリだった。あと少し遅れていたら落ちていた。お前の符がなかったら、今頃俺はカクレンの奴隷だ」
「そうか......よかった。それにしてもお前さん、肩に爪の跡がすごいぞ。ずいぶん激しかったのだな」
「ああ.....こんなのは二度とごめんだ」
カクレンの手紙を受け取った。一行だけ書いてあった。
今度会った時は、必ず殺す。
俺は苦笑した。涙の跡が手紙に滲んでいた。
フリョウが後ろから覗き込んだ。
「おい......これは字面は恐ろしいが、まだ脈ありなんじゃないか」
「黙れ。お前のせいだぞ」
翌朝、カクレンの軍は天水に向けて撤退していた。俺は肩の爪跡を軍袍で隠し、何食わぬ顔でレイセキとの軍議に臨んだ。
だが、アイにだけは絶対に知られてはならないと思った。




