欠けた匙の印
渦を巻くRを見つけた翌朝、わたくしは母の帳面を、いちばん古いものから順に机へ並べました。
ロジーナ様の字が札を書いた者を示すのなら、封蝋は瓶を作った者の手順を示します。
匙の印は、どれも同じに見えるでしょう。
けれど母の印章は、同じではございません。
十四年前の帳面を開くと、乾燥させたタチジャコウソウの重さや、蜜の仕入れ値に挟まれて、母の字がございました。
『アデル、十二歳。蜜蝋印章を石床へ落とす。匙の柄の先、欠ける。使用に差し支えなし』
その日のことは覚えております。
母の真似をして封蝋を押してみたくて、両手で持ち上げたのです。けれど印章は十二歳のわたくしには重く、石床へ落ちました。
泣いて謝るわたくしに、母は壊れた物を隠してはいけないと申しました。叱るより先に帳面を開き、日付と、落とした者と、欠けた場所を書いたのです。
幼い娘の失敗まで残しておくとは、ずいぶん容赦のない母でございます。
そして今となっては、たいへんありがたい容赦のなさでした。
施療院から預かった封蝋のかけらは四十二個。北の砦から届いたものは百十六個。
合わせて百五十八個です。
ヴィクトル様が取り寄せる前に、証言に立つかどうかはわたくしに決めさせてくださいましたので、わたくしはまず、物だけをお借りすると決めました。砦の軍医が瓶から外した封蝋には、受領した年と台帳の番号が一つずつ付いております。
「この小さなくぼみでしょうか」
トビアスが拡大鏡をのぞき込みました。
「ええ。匙の柄の先をご覧くださいませ」
「あ、本当だ。先だけ、斜めに切れています」
百五十八個すべてに、同じ欠けがございました。
欠けた印章で押したのですから、欠けていて当然です。身分も鑑定の才も必要ございません。拡大鏡を当て、柄の先を見る。それだけで誰にでも確かめられます。
一方、薬屋と施療院から記録用に集められた偽造瓶は三十本。
こちらの匙には、一つも欠けがありませんでした。
それだけではございません。
マルタが偽造瓶の封蝋を指でなぞり、鼻を鳴らしました。
「蝋を熱くしすぎておりますね。縁が細かく割れている」
温度を上げれば早く溶けます。早く溶ければ、一晩に多くの瓶を封じられるでしょう。
けれど熱すぎる蝋は、冷えた時に縮み、縁から細かく割れます。本物の封蝋はゆっくり溶かされ、表面がなめらかなままでした。
印だけ写して、手順は写さなかったようです。
まことに、見栄えのよいところだけお学びになるのがお上手ですこと。
わたくしたちは大きな紙を三つに分けました。
左に、施療院の四十二個。中央に、砦の百十六個。右に、偽造瓶三十本。
数、匙の柄の欠け、封蝋の割れ方、台帳の番号。字の読めないマルタとヘルガにも確かめられるよう、本物の欄には欠けた匙の絵、偽物の欄には先の丸い匙の絵を添えました。
絵を描いたのはトビアスです。ヘルガは拡大鏡で一つずつ見て、本物なら麦の穂の印を脇へ記しました。
「四十二。百十六。合わせて百五十八。全部、先が欠けています」
「偽物は三十。欠けていません」
二人が数え、マルタがもう一度数え、最後にわたくしが台帳と照らしました。
新しい園で初めて仕上がったものは、薬の瓶ではなく、誰が見ても同じ答えになる比較表でした。
わたくし一人が本物だと申しても、それは主張にすぎません。
トビアスが見ても、字の読めないヘルガが見ても、ギルドの方が見ても同じなら、それは証拠になります。
比較表の下には、確かめ方を三行だけ記しました。
一、拡大鏡で匙の柄の先を見る。
二、縁に細かな割れがあるかを見る。
三、番号を受領台帳と照らす。
「これなら、わたしにも説明できます」
ヘルガが申しました。
「ええ。どなたが説明しても、欠けは増えも減りもしませんもの」
その夜、施療院そばの宿駅へ、泥まみれの伝令が駆け込みました。
北へ続く峠の橋が落ちたとの報せでした。
雪解け水で橋脚の根元が削られ、荷車が一台、向こう岸に取り残されています。砦へ向かう道も塞がれました。幸い、人は落ちなかったそうです。
ヴィクトル様はすぐに宿駅へ戻られました。砦を預けている副官との連絡、迂回路の確認、橋を渡る予定だった荷の振り分け。なさるべきことはいくらでもあるでしょう。
「明朝はお休みになってくださいませ」
わたくしはそうお伝えしました。
「欠席の理由も、橋の件と書いておけます」
「分かった」
ヴィクトル様はそれ以上、何も約束なさいませんでした。
翌朝、丘へ上がると、東の空はまだ薄暗く、六時の鐘も鳴っておりませんでした。
門の前に、大きな人影が立っております。
ヴィクトル様でした。
出席簿の脇に置いた時計は、五時五十分を指しておりました。
「橋の差配へ行く前に来た」
角ばった大きな字で、ヴィクトル様はご自分の名を書きました。
日付の隣には、五時五十分。
欠席理由の欄へ筆を運びかけて、止めます。
「今日の分は、ここで全部聞く時間がない。帳面で読んでもいいか」
来たのだから聞いたことにしてほしいとも、後で君が教えたことにしてくれとも、おっしゃいませんでした。
今日の分を、ご自分で読む。
その方法でよいかを、わたくしに尋ねておられます。
「ええ。お戻りになってから、分からなかったところだけお尋ねくださいませ。今日は帳面でお読みになる形で結構です」
「ありがとう」
わたくしはその日の頁を写した紙をお渡ししました。乾燥棚の風の通し方と、雨の日に戸をどれほど開けるかを書いたものです。
ヴィクトル様は紙を革袋へ収めました。
「橋の向こうの者を待たせている。行ってくる」
「お気をつけて」
あの方は一度うなずき、丘を下りていかれました。
出席簿には署名が一つ増えました。
欠席理由の欄は、白いままでした。
来られない事情があったのに来たことよりも、来たからといって聞いていない分まで聞いたことにしなかった。その一行のほうが、わたくしには大切に思えました。
同じ日の午後、議事堂前の掲示が貼り替えられました。
ディートリヒの返納に関する公示です。
凍結された私的口座から金貨五千八百枚。王都の屋敷を売却して六千枚。馬十二頭を売却して四百枚。
合わせて一万二千二百枚。
返納すべき一万九千六百枚には、なお金貨七千四百枚足りません。
屋敷と馬十二頭を手放しても、七千四百枚。
数字は、立派な門構えにも、血筋にも、遠慮をいたしません。
わたくしは公示を一度だけ読み、母の家へ戻りました。足りない金貨をわたくしが工面する理由など、帳面のどこにもございません。
翌朝、園で比較表を筒に収めていると、領都の薬種ギルドの書記が丘を上ってまいりました。
第1話で、オスヴァルト様の拒絶を時刻まで確かめてくださった方です。今回は申請書を抱え、受領札も持っておりました。
「新しい園の製薬認可について、審査日が決まりました」
書記はその場で申請書を開き、日時を読み上げました。
そして、審査役の欄を指します。
「審査役は、支部長オスヴァルト様です」
まだ続きがございました。
「王都のブラント商会長、ルーカス・ブラント様より、審査への同席の申し出が出ております」
(第5話へ続く)




