八年分の封蝋
金貨五百枚を七日以内に。
ブラント商会から届いた請求状は、朝になっても一文字たりとも安くなってはおりませんでした。
もっとも、紙というものは便利でございます。大声も威圧も、書いてしまえばただの文面。こちらも規則と記録を並べて、お返事を差し上げればよいのです。
翌朝、わたくしは請求状を新しい園へ持ってまいりました。
六時の鐘が鳴る前から、ヴィクトル様は南向きの斜面に立っておられました。トビアスは区画の札を読み上げ、ヘルガは石灰質の土へ混ぜる細かな砂利を籠で運んでおります。マルタたち四人は、施療院へ続く道側から畝を整えていました。
昨日まで線にすぎなかった畝は、今朝、六人が歩ける三本の作業路と十二の区画になりました。霜の心配がなくなってから母の家の畑で株分けするタチジャコウソウを植える場所には、トビアスが名を書いた札が立っています。
新しい園で、誰がどこを受け持つか。それを誰の記憶にも頼らず、札と帳面で確かめられるようになったことが、本日の成果でした。
わたくしは出席簿への署名を終えてから、ヴィクトル様に請求状をお見せしました。
「払うのか」
「まさか」
少々早く答えすぎましたので、微笑みを添えて言い直します。
「商会のお申し出が正しいか、まず規則に照らしていただきますわ」
力のある商会へ、こちらも力で押し返す必要はございません。領都の薬種ギルド規則には、登録より前から継続して使われ、取引先がその印を出所の目印として認識していた場合、先使用の異議を申し立てられる、とございます。
オスヴァルト様が申請書を開きもしなかったあの日、待合の棚に置かれていた規則集の頁を、わたくしは控えておきました。
開かなかった方のお部屋にも、読める紙はあったのです。お気の毒さまでございますこと。
「異議申立書には、いつから匙の印を使っていたかを示す記録が要ります。施療院には八年分の受領台帳が残っていますわ」
「砦にも軍医の記録がある」
ヴィクトル様はそこで言葉を切り、わたくしの返事を待ちました。
「取り寄せてもいいか。俺が証言に立つのは、君が望む時だけにする」
記録を借りることと、ヴィクトル様ご自身に証言していただくこと。それを一つにせず、別々に尋ねてくださったのです。
「記録は、お願いいたします。証言については、必要になった時に、改めてわたくしからお願いしてもよろしいでしょうか」
「ああ。君が決めてくれ」
近くにいてくださることと、わたくしの前へ出ることも、同じではございません。
その違いを分かってくださる方へ頼み事をするのは、不思議なほど息が楽でした。
施療院へ参りますと、院長のイルザ様は倉庫の奥から革表紙の台帳を八冊運ばせました。
「一年に一冊。受領の日、瓶の数、封蝋の状態、使った数、残った数。軍へ回した時は、その宛先も書いてあります」
最初の冊子は、八年前のものです。
公爵家薬草園より咳止め百瓶を受領。封蝋は匙印。破損なし。
同じ記載が季節ごとに続き、頁の端には、検品の際に外した封蝋のかけらまで糸で留められておりました。小さな匙の形が、八年分の紙の上に残っています。
「捨てずにおいてくださったのですね」
「薬は中身だけでなく、誰が作り、どこから来たかも確かめなければなりませんから」
「そのお言葉、異議申立書へ添えても?」
「ええ。私の名も書きます」
わたくしが受け取ったのは、原本ではなく、公証人に照合していただくための写しです。原本を持ち歩いて紛失すれば、八年が一日で消えてしまいますもの。
母の家にも、さらに古い記録がございました。
戸棚の最下段に収められた帳面には、苗を買った日、蜂蜜の濃さ、煮出した量とともに、見本として匙印の蝋が貼られております。黄ばんだ頁の端には、母の細い字で日付まで記されていました。
商会が登録したのは昨年の霜月。
こちらの蝋は、それよりずっと古いものです。
新しい銀貨を机に置いて、先祖代々の品だと言い張ることはできましょう。けれど、古い帳面の染みも、頁を縫う糸の傷みも、昨日一晩では育ちません。
午後には、ヴィクトル様が宿駅から砦へ早馬を出してくださいました。軍医の記録を取り寄せる依頼状にも、勝手にわたくしの代理とは書かず、求めている記録の範囲だけが、角ばった大きな字で記されておりました。
その日のうちに、わたくしは先使用による異議申立書を薬種ギルド本部へ送りました。
添付目録は三つ。
施療院の八年分の受領台帳。
匙の蝋を貼った母の古い帳面。
そして到着次第追完する、北の砦の軍医記録です。
金貨五百枚の請求状への返答は、金貨ではなく、まず紙三種類となりました。
ブラント商会には、さぞ数えにくいお支払いでございましょう。
三日後、わたくしが台帳の写しの照合結果を伝えに施療院へ参りますと、入口から子どもの泣き声が聞こえました。
七つか八つほどの男の子が、母親に抱きついております。顔色は悪く、目の下には濃い隈がありました。咳き込むたびに胸を押さえています。
「二晩、ほとんど眠れていないんです」
母親が籠から取り出したのは、飾り窓で見たものと同じ瓶でした。
『匙印・公爵家秘伝咳止め』
一瓶、金貨十枚。
「匙の印があるから、本物だと……三度飲ませました。それでも咳が少しも楽にならなくて」
イルザ様が栓を開けました。
漂ったのは、焦げた砂糖の匂いです。
本来なら、瓶の口にはタチジャコウソウの鋭い香りと、ニワトコの花の甘い香りが残ります。これは甘いだけで、舌に貼りつきそうな焦げ臭さがございました。
咳止めは病を消すものではありません。症状を和らげ、体を休ませ、眠れるようにするためのものです。その役目さえ果たさず、匙の印だけを借りて金貨十枚。
ずいぶん高価な砂糖水ですこと。
イルザ様は男の子の熱と呼吸を確かめ、偽造瓶をそれ以上飲ませないよう母親へ伝えました。施療院で経過を見ることになり、男の子は毛布をかけられて奥の寝台へ運ばれます。
「この瓶を預かってもよろしいですか」
イルザ様が母親へ尋ねました。
「返してもらえるなら。店にも話をしに行きます」
「封蝋と中身を記録した後、お返しします」
誰かの怒りだけでは、店は取扱いをやめないかもしれません。けれど、受領台帳と現物と診療記録が揃えば、薬屋は自分の信用をどちらに預けるか選べます。
イルザ様はその日のうちに、施療院では匙印の偽造瓶を使用しないと掲示しました。翌日から領内の薬屋へ、瓶の匂い、札、封蝋、服用後も眠れていない子どもの診療記録が回されました。
取扱いを続けるかどうかは、各店が決めたことです。
一月後の集計では、領内十二軒のうち九軒がブラント商会の匙印の瓶を棚から下ろしておりました。
商会の領内での月売上は、金貨九百枚から百八十枚へ。
わたくしは瓶を奪っても、店へ命令してもおりません。ただ比較できる記録を差し出しただけです。
選ばれなくなったのなら、それは選ぶに足る中身をご用意なさらなかった方の成果でございましょう。
異議申立書へ添えるため、預かった偽造瓶の札を公証人のエーベル様が写してくださいました。わたくしは母の家の机で、その写しを一枚ずつ確かめます。
花の絵。丸い文字。商品名の末尾にある大きなR。
そのRだけが、最後の線を内側へ巻き込み、渦のようになっておりました。
わたくしは戸棚から、三十日の引継ぎで使った出席簿の写しを取り出しました。欠席理由の欄に並ぶ「茶会のため」は十九行。
十九個のRを含むロジーナ様の署名と、偽造瓶の札を、机の上へ一行ずつ並べました。
すべてのRが、同じ向きに渦を巻いておりました。
(第4話へ続く)




