第三話 崩壊する五角形
アパートの閉ざされた暗闇の中で、僕たちは互いの体温だけを確かめ合うように、ただ強く抱き合っていた。咲良の髪から香る甘いシャンプーの匂いだけが、僕をこの世界に辛うじて繋ぎ止める細い糸だった。だが、その糸すら、いつ切れてしまうか分からない。僕が少しでも気を緩め、あのルナという存在に心を滑らせてしまえば、この腕の中にいる咲良の記憶すら、容赦なく脳内からパージされてしまうのだ。今や僕のスマートフォンのタイムラインは、あかりや結衣の死と入れ替わるように自動補充された、名前もよく思い出せない「新一号」「新二号」「新三号」……といった無機質な記号(新しい女たち)からのメッセージで埋め尽くされている。常に五人を愛さなければならないという脳の強迫観念が、僕を内側から食い荒らしていた。「……湊くん。もう大丈夫だから。ちゃんと話して?」咲良は僕の汚れた頬を、小さな両手で優しく挟み込んだ。彼女のまっすぐな瞳が、暗闇の中で微かに光を反射してきらめいている。その純粋さに耐えかねて、僕はついに堰を切ったように、すべてを告白し始めた。
「咲良……聞いてくれ。僕の頭は、狂ってしまったんだ。僕がルナさんという人を好きになり始めてから……みんなが消えたんだ。千尋さんも、莉奈も、あかりも、結衣も……みんな、僕が忘れた瞬間に、死んでしまった。そして僕の脳は、その穴を埋めるように、僕の意志とは関係なく新しい身代わりをどんどん補充し続けているんだ」咲良の身体が、一瞬だけピクリと強張る。僕は涙を流しながら、さらに言葉を重ねた。「僕は一度に、五人までしか愛せない。六人目を愛したら、脳が勝手に誰かを消去して、消された人は一週間以内に凄惨な事故で死ぬんだ。そんなの、絶対に狂ってるって思うよね……! でも、現実にみんな死んじゃったんだ!咲良、君はあの最初の五人のうち、残された最後の一人なんだよ!僕が君を忘れて、新しい女たちやルナさんで五人の枠が完全に埋まったら、君も、あの子たちみたいに死んじゃうんだ……!」突飛で、荒唐無稽で、狂人の妄想としか思えない告白。普通の人間なら、恐怖に顔を引き攣らせて部屋を飛び出していくはずだ。しかし、咲良は僕から目を逸らさなかった。彼女は、これまでに亡くなった女性たちの不自然な死、そして何より、最近の湊の周囲にいつの間にか増えていた「見知らぬ新しい女性たち」の不気味な存在と、湊の記憶の「空白」を思い返しているようだった。そして、咲良の瞳に、深い、深い諦念と覚悟の光が灯る。彼女は、僕の言葉を真実として受け入れたのだ。忘れられたら、死ぬ。そして死んだら次の駒が補充される、その歪んだ世界のルールを。「……そっか。みんな、そうやって消えて、新しい子たちに変わっていったんだね」咲良は悲しげに、しかし驚くほど穏やかに微笑んだ。「でも、私は逃げないよ、湊くん」「え……? 何を言って……逃げるんだ、咲良! 僕のそばにいたら、いつ僕の心がルナさんに奪われて、君を忘れてしまうか分からないんだ!今の僕の周りには、もう知らない女の子たちがたくさんいて、君の場所を押し出そうとしているんだよ!」「逃げない」咲良は首を振って、僕の首筋に腕を回した。「逃げたって、もし湊くんが私のことを忘れちゃったら、私は死んじゃうんでしょ? だったら……一番近くにいるよ。私を忘れないで。あの五人のうちの、最後の一人でいさせて。新しく入ってきた女の子たちに、私の場所を奪わせないで。湊くんの頭の中から、私を絶対に追い出さないで」それは、あまりにも歪んだ、しかし極限の依存の形だった。彼女は、死の恐怖に怯えて逃げ出すのではなく、次々と身代わりが補充されていく僕の歪んだ脳のシステムに自ら飛び込み、初期メンバーとしてのプライドと僕への愛だけを命の綱として生きる道を選んだのだ。
僕の頭の中の精神世界は、すでに完全に崩壊寸前だった。目を閉じると、脳裏にはかつて美しく張り巡らされていた、あの暖かな「五角形」の残骸が見える。千尋さんがいた場所、莉奈がいた場所、あかりがいた場所、結衣がいた場所。かつて僕を全方位から優しく支えてくれていた純粋な頂点は、すべて粉々に砕け散り、黒い虚無の穴が開いていた。 そして今、その穴を埋めるように、僕の脳が自動生成した「新一号」「新二号」「新三号」という、顔も判然としない無機質な灰色のノイズがその座に居座り、五角形の形だけをシステム的に維持している。今や、そのひび割れた大地の上に、かつての記憶のまま立っているのは、咲良という最後の一角だけだった。その彼女の背後からも、巨大な津波のようにルナという暗い影が迫り、僕の精神のすべてを飲み込もうと手を伸ばしていた。
「嫌だ……消えてくれ、ルナさん……! 僕の頭から出て行ってくれ……!」
僕は狂ったように自分の頭を壁に打ち付けた。ゴン、ゴンと鈍い音が響く。己の「勝手に忘却し、勝手に身代わりを自動補充する脳」が、これほどまでに憎いことはなかった。なぜ僕の心は、自分の意志で制御できないのだ。なぜ新しい恋心を、無機質なデータのように処理して、大切な人たちを排除し、新しい記号に置き換えてしまうのだ。「神様、お願いだ……僕から彼女を奪わないでくれ……!」僕は咲良にしがみつき、激しく喘ぎながら彼女の存在を脳に刻み込もうとした。咲良の手のひらの温かさ。少しハスキーな、心地よい話し声。僕の好物を一生懸命作ってくれた時の、嬉しそうな笑顔。「新一号」たちの無機質なノイズに塗りつぶされないよう、彼女との記憶を脳の最も深い領域へ、消えないインクで書き殴るようにして必死に留めようとする。「咲良、咲良、咲良……!」名前を何度も呼び、その身体を壊れ物を扱うように抱きしめる。 咲良は僕の背中を優しく撫でながら、静かに涙を流していた。「大丈夫だよ、湊くん。私はここにいるよ。ずっと、ずっと……」薄暗い部屋の片隅で、自動補充される偽物の愛に包囲されながら、崩壊していく世界に抗い、ただ互いを求め合う二人の姿。それは、あまりにも残酷で、過酷な運命に翻弄される、悲劇の恋人たちのポートレートだった。湊はどこまでも、大切な人を守りたいと願いながら、自身の制御できない脳の機能と自動補充システムに絶望し、涙を流する気弱で優しい被害者。咲良は、彼の愛だけを信じて、死の淵で彼にすべてを委ねる悲劇のヒロイン。二人の悲恋は、この暗いアパートの一室で、美しくも痛ましく完結しようとしているように見えた。しかし、この美しく悲しい絵の具は、すべて、一人の男が描き出した精緻な幻影に過ぎなかった。




