表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
3/5

第二話 加速するパージ

 あかりを抱きしめ、「もう誰も愛さない」と誓ったあの夕暮れから、僕の日常は薄氷の上を歩くような緊張感に支配されていた。ルナの連絡先が書かれた紙は、細かく引き裂いてゴミ箱の奥深くに捨てた。スマートフォンは極力見ないようにし、大学の講義も最低限の出席にとどめて、すぐに自室へ逃げ帰る。自分の心を、完全に凍結させてしまいたかった。何も感じず、誰にも惹かれず、ただ今いる恋人たちを義務のように、しかし変わらぬ熱量で愛し続けること。それだけが、これ以上のパージを防ぐ唯一の防壁だと信じていたからだ。



 しかし、僕の脳のシステムは、僕の脆弱な理性などよりも遥かに冷酷で、執拗だった。僕の精神を安定させるための「五角形」は、一角でも欠ければ崩壊する。だから、千尋さんと莉奈を失った僕の脳は、僕の意識が追いつかないほどの防衛本能で、その空白を自動的に埋めようとしていたのだ。事実、僕のスマートフォンには、僕の記憶にない「新しい二人の女の子」のアカウントが、いつの間にか登録されていた。一人は他校の大人しい女子大生。もう一人は、駅前で僕が呆然としていた時に声をかけたというアパレル店員の女性。僕が恐怖のあまり正気を失いかけていた数日間の間で、僕の身体は無意識のうちに彼女たちを口説き、交際をスタートさせ、完璧に「五人の恋人がいる状態」を修復していた。脳のキャパシティは、常に上限である五人で満たされていなければならなかった。そうして「新一号」「新二号」を交えて無理やり維持された歪な五角形の中で、防壁は内側から、いとも容易く崩れ去る。



「湊くん、最近忙しいのかな?」「先輩、また一緒にパフェ食べに行きたいな」



 初期からの恋人である咲良やあかりからのメッセージが画面に届くたび、僕の胸には強烈な罪悪感と、それ以上に「義務感」という名の冷たい疲弊が積もっていった。彼女たちを愛さなければならない。死なせないために、僕がその存在を脳に繋ぎ止めておかなければならない。さらに、新しく補充された二人の存在にも愛を分配しなければならない。その必死の強迫観念が、皮肉にも、僕の心に耐え難い「重荷」を生み出していった。そして、心が疲弊し、隙間ができたその瞬間に。あの雨上がりの森のような、冷たく澄んだルナの香りが、記憶の底からふわりと蘇ってくるのだ。本当は、彼女に会いたい。ルナさんの、あの冷たい指先に触れて、すべてを忘れてしまいたい。「だめだ……考えるな、思い出すな……!」自室のベッドで、僕は頭に枕を押し付け、声を殺して叫んだ。理性が全力でブレーキを踏んでいるのに、五人の恋人を維持するストレスから逃れるように、僕の無意識は磁石に吸い寄せられる鉄屑のようにルナの存在を求めてしまう。彼女のミステリアスな黒い瞳、僕の心をすべて見透かすようなあの知的な微笑み。それを望むたびに、僕の脳の奥で、カチリ、と冷酷なスイッチが切り替わる音が聞こえる気がした。「やめろ……頼むから、僕の心を動かさないでくれ……!」自分の心なのに、自分の意志でコントロールできない。五人の枠を満たした状態で、規格外の六人目を求める恋心という名の不条理なバグが、僕の脳内で制御不能な暴走を始めていた。そして、その「揺らぎ」の代償は、あまりにも早く、容赦なく支払われることになる。



 三日後の朝、目覚めた僕を待っていたのは、世界がまた一回り狭くなったような、あのひんやりとした静寂だった。頭の芯に、鈍い痛みが残っている。僕は恐る恐るスマートフォンを手に取った。液晶の光が、網膜をチクチクと刺す。メッセージアプリの画面を開いた瞬間、冷水を浴びせられたように体温が引いていくのが分かった。「……あかり?」いない。 昨日、あれほど必死に抱きしめ、「一生愛し続ける」と誓ったはずのあかりの連絡先が、どこにも見当たらない。トーク履歴も、通話記録も、彼女が僕の人生に存在していた痕跡が完全に消去されている。あかりがどんな笑顔を見せていたか、どんな声で僕を呼んでいたか。思い出そうとすればするほど、脳の霧は濃くなり、まるで最初からそんな少女は世界に存在していなかったかのような感覚に陥る。「あ、ああ……! あかり……あかり、ごめん、ごめん……!」僕はベッドの上で這いつくばり、涙を流した。新しい二人を補充して「五人」を維持していたせいで、僕がルナを想った瞬間、過剰となったあかりがシステムから弾き出されたのだ。 そして、ルールは容赦なく彼女の「物理的な死」を執行する。その日の昼過ぎ、テレビのニュースが僕の予感を現実のものにした。あかりは、アルバイトからの帰路、ブレーキの故障した自転車で下り坂を暴走し、道路脇のコンクリート壁に激突して死亡した。即死だったという。「僕が殺した……僕の弱い心が、あかりを殺したんだ……!」絶望に打ちひしがれる僕の脳内に、さらなる追撃が加わる。その日の夕方、今度は初期メンバーの一人であった「結衣」の記憶が、何の前触れもなく脳内から消滅した。あかりが消えた瞬間、僕の脳は恐怖から逃れるために、またしてもマッチングアプリで「新しい別の女の子(新三号)」とマッチして枠を埋めていた。常に五人をキープし続けているがゆえに、ルナへの絶ち切れぬ想いが、今度は結衣を枠の外へと押し出したのだ。



 結衣の訃報は、翌朝の新聞の片隅に載っていた。彼女が通う大学の実験室で原因不明のガス爆発事故が発生し、彼女を含む数名が巻き込まれたという。千尋さん。莉奈。あかり。結衣。五角形を形作っていたはずの初期の恋人たちが、次々と、残酷な事故によって削ぎ落とされていく。その度に、僕の脳は身勝手な防衛本能で、見知らぬ「新一号」「新二号」「新三号」を補充し、五人の交際ステータスを維持し続けている。僕の周囲は、彼女たちの血と、僕の強制的な忘却と補充のサイクルによって、真っ赤に染まっていった。「僕のせいだ、僕の心が弱いから、みんなが死んでいくんだ……!」自分の頭の中に、恐ろしい殺人マシンが飼い慣らされているような感覚。僕がルナに恋心を抱くだけで、僕を心から愛してくれた無実の女の子たちが、身代わりのように一人ずつ無残に処理されていく。この「脳のルール」から逃れる術はない。僕は自分の不条理な肉体と精神のあり方に、底知れぬ恐怖と嫌悪感を抱き、ついに正気を失いかけていた。



 僕は、アパートの部屋のカーテンをすべて閉め切り、完全に引きこむことにした。これ以上、誰の顔も見たくなかった。新しく自動補充された見知らぬ恋人たちからのデートの誘いも、すべて無視した。部屋の明かりは一切つけず、ただ薄暗い闇の中に膝を抱えて座り込む。 大学からの連絡も、友人からの電話もすべて無視した。髪はボサボサに乱れ、最後にいつ風呂に入ったのかも思い出せない。鏡を見るまでもなかった。目の下には、連日の恐怖と不眠、そして激しい自己嫌悪による死人のような深いクマが刻まれている。「誰も愛しちゃいけない。誰とも関わっちゃいけない……」僕はぶつぶつと、呪文のように同じ言葉を繰り返していた。指先を少しでも動かせば、スマホに触れてしまうかもしれない。外の空気を吸えば、また枠を維持するために誰かと出会って、その人を愛してしまうかもしれない。僕がこの部屋で泥のように腐っていけば、これ以上の犠牲者は出ないはずだ。だが、そんな僕の「引きこもり」すら、残された初期メンバーにとって異常事態でしかなかった。「湊くん……? 湊くん、いるの? 入るよ……」カチャリ、と玄関のドアが開く音が聞こえた。 合鍵を使って入ってきたのは、咲良だった。「湊くん……!」薄暗い部屋の奥、ゴミと埃にまみれて丸まっている僕の姿を見つけ、咲良は手に持っていた買い出しの袋を落とした。彼女は迷うことなく駆け寄り、僕の泥のような身体を、躊躇うことなく抱きしめた。「どうしたの、これ……。何があったの? 連絡も全然つかなくて、私、心配で死にそうだったんだよ……!」咲良の温かい体温が、僕の冷え切った皮膚に伝わる。その温もりが、僕をさらに激しく怯えさせた。「来ないで……! 咲良、僕に近寄っちゃだめだ……!」僕は狂ったように彼女を突き放そうとした。「僕に関わると、死ぬんだ! 僕の周りの女の子たちが、どんどん知らない子に入れ替わって、みんな死んじゃうんだよ!お願いだから、僕を一人にして、僕を忘れて……!」「嫌だよ! 忘れるわけないじゃない!」咲良は僕の抵抗を力強く抑え込み、さらに強く抱きしめてきた。彼女の目から溢れた涙が、僕の首元に温かく滴り落ちる。「湊くんがどんなに壊れても、私はずっとそばにいるよ。何があったか分からないけれど、私だけは、絶対に湊くんを一人にしない。何があっても、一緒にいるから……!」その純粋で、揺るぎない、圧倒的な優しさ。咲良は、僕の頭の中に広がるおぞましい世界のルールなんて、何一つ知らない。ただ、目の前で壊れかけている恋人を救いたいという、その一念だけで、泥にまみれた僕を抱きしめている。彼女の涙に濡れた笑顔を見つめているうちに、僕の胸の奥で、カチリと何かが噛み合う音がした。



 咲良。彼女は、僕の初期メンバーの最後の一角だ。周りの席が、いつの間にか僕の脳が自動補充した「新一号〜三号」という見知らぬ記号に侵食されていく中で、彼女だけが、僕の過去と純粋な愛を証明してくれる唯一無二の光。「咲良……」僕は彼女の背中に手を回し、狂ったようにすがりついた。脳の奥で、ルナの冷たい微笑みがノイズのように明滅する。それを必死に、咲良の温もりで掻き消そうとする。「神様、お願いです」 僕は心の中で、血を吐くような祈りを捧げた。「僕から、彼女だけは奪わないでください。彼女だけは、絶対に、絶対に死なせない。周りの手駒がどれだけ入れ替わろうとも、咲良だけは、この五人の枠の中に永遠に守り抜いてみせるから……!」咲良を強く抱きしめる僕の指先は、恐怖と、異常なまでの執着で、白く強張っていた。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ