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第一話 忘却のシステム

 千尋さんの凄惨な事故死から、数日が経過していた。あの夜、駅前の居酒屋で涙が止まらなくなった僕を、莉奈は心配そうに見つめていた。僕は「最近、少し疲れが溜まっているみたいだ」と無理に笑って誤魔化し、それ以上の追及を避けた。けれど、僕の心に開いた「一角の空白」は、日に日に冷たい風を吹き込ませ、僕の精神を侵食していった。スマホの画面に残された、僕の番号へ何度も発信を試みた「千尋さん」の最期の記録。彼女は僕にとって何者だったのか。なぜ僕は彼女を完全に忘れてしまっているのか。答えの出ない問いが、霧のように脳裏に立ち込めていた。そんな僕の混沌とした心を、さらに揺さぶる存在がいた。



「湊くん、今日もここにいた」



 図書館のいつもの洋書コーナー。静寂の中に響いたルナの声に、僕は弾かれたように顔を上げた。彼女はあの日と同じ、深い闇を溶かしたような黒い瞳で僕を見つめていた。手には一冊の古い詩集が握られている。「ルナさん……」「連絡、待っていたの。でも、あなたからは一度も鳴らなかったから。しびれを切らして、私から会いに来ちゃった」悪戯っぽく微笑みながら、彼女は僕の隣の席に滑り込んできた。その瞬間、僕の鼻腔をくすぐったのは、雨上がりの森を思わせる、どこか冷たくて澄んだ香りだった。心臓が、痛いほどの速度で警鐘を鳴らし始める。だめだ。関わってはいけない。僕の直感がそう告げていた。今の僕は、自分の中に起きている「記憶の欠落」という異常事態に耐えるだけで精一杯なのだ。これ以上、新しい人間関係を抱え込む余裕なんてない。しかし、僕の言葉とは裏腹に、身体は彼女を求めていた。「ごめんなさい。ちょっと……最近、身の回りでバタバタすることがあって」「ふーん。顔色が悪い。何か悲しいことでもあった?」ルナはそっと、僕の頬に白い指先を滑らせた。ひんやりとした彼女の皮膚の熱が、僕の体温を奪うように伝わってくる。その冷たさが、驚くほど心地よかった。「私に話して。湊くんの痛みを、私にも分けてほしいな」彼女の言葉は、まるで麻薬のように僕の耳から脳へと染み込んでいく。「ルナさん、僕は……」 紡ぎ出そうとした言葉は、彼女の唇によって塞がれた。重ねられたルナの唇は、微かに震えていた。驚きに目を見開く僕の視界の中で、彼女の黒髪がサラサラと揺れる。一瞬の、しかし永遠のようにも思える抱擁。 僕の胸の中にあった、千尋さんを失ったことによる喪失の痛みが、ルナの存在によって急速に塗りつぶされていく。もっと。もっと彼女を愛したい。 その強烈な情動が僕の全身を支配した瞬間、一昨日の夜よりも遥かに凄まじい衝撃が、僕の脳髄を直撃した。



「がはっ……!? ん、あ……!」



 視界が真っ白に染まる。脳の細胞が一斉に悲鳴を上げ、沸騰したかのような熱さが頭頭部を駆け巡った。あまりの激痛に、僕は椅子から転げ落ちそうになりながら、自分の頭を強く掻きむしった。「湊くん!? 大丈夫?」ルナの心配そうな声が、遠く、水の中に沈んでいくように霞んで聞こえる。僕はただ、床に膝をつき、激しい嘔吐感と脳を引き裂かれるような痛みに、声もなく悶え続けるしかなかった。



 次に意識がはっきりとした時、僕は自分の部屋のベッドの上に横たわっていた。窓の外は、すでに白々と夜が明け始めている。「ルナさんが、送ってくれたのかな……」僕はズキズキと痛む頭を押さえながら、上体を起こした。昨日の図書館での出来事が、頭の中で断片的に蘇る。ルナと唇を重ねた。その瞬間に、あの強烈な激痛に襲われたのだ。「……そうだ、莉奈に連絡を入れないと」昨日、莉奈とは夜に会う約束をしていたはずだった。それなのに、僕はまたしても約束をすっぽかしてしまったことになる。彼女は怒りっぽいけれど寂しがり屋だ。今頃、怒りの絵文字が何十個も送られてきているに違いない。僕はスマートフォンを手に取り、莉奈とのトーク画面を開こうとした。しかし。「え……?」指先が、画面の上で泳いだ。 連絡先リストを上から下まで、何度も何度もスクロールする。咲良。あかり。 結衣。「莉奈……? 莉奈って、誰だっけ……?」僕の口から、無意識のうちにその名前が零れ落ちた。けれど、僕の記憶の引き出しには、その名前に合致する人物の顔も、声も、思い出も、何一つとして存在していなかった。スマホの中をいくら探しても、「莉奈」というアカウントはどこにも存在しない。トーク履歴は昨日までの僕と彼女のやり取りを、まるで最初からなかったことのように綺麗に消し去っていた。「おかしい。僕の彼女は、咲良と、あかりと、結衣の三人だ」僕は頭を強く振った。「そうだ。僕には三人の愛する恋人がいる。それだけだ。莉奈なんて女の子、最初から僕の人生には関わっていなかったはずだ。なのに、どうして僕は今、その名前を口にしたんだろう……」全身に、じっとりとした嫌な汗が伝う。 千尋さんの時と同じだ。僕の頭の中から、何かが「消去」されている。それも、僕にとって極めて身近で、大切だったはずの誰かの存在が、丸ごと、根こそぎ。恐怖に震える手で、僕は昨日のニュースサイトを検索した。 嫌な予感が、心臓を激しく叩いていた。どうか僕の勘違いであってくれ。ただの記憶違いであってくれ。そう祈りながら、画面をスクロールしていく。



 そして、見つけてしまった。「本日午前二時頃、市内の複合商業ビル「アトリエ・スクエア」の非常階段から、女性が転落する事故がありました。転落したのは、近くに住む専門学校生の莉奈りなさん(20)。莉奈さんは頭部を強く打ち、搬送先の病院で死亡が確認されました。警察は、手すりを乗り越えた形跡があることから、事故と自殺の両面で」「嘘だ……嘘だろ……!」スマートフォンの画面が、僕の震える手から滑り落ちて床に衝突し、乾いた音を立てた。莉奈さん。二十歳。僕の記憶には全く残っていない、けれど確かに僕を「湊っち」と呼んで、昨日居酒屋で楽しそうにポテトを食べていたはずの、あのギャルの女の子。彼女が、死んだ。 千尋さんが死んでから、わずか数日しか経っていないというのに。



 「嘘だ……こんなの、絶対に何かがおかしい……!」僕は自室の床に座り込み、狂ったように自分の髪をむしった。 二人の死。そして、その二人が死ぬ直前に、僕の記憶から彼女たちの存在が「完全に消えていた」という事実。僕は頭の中に、必死で失われた記憶の断片をかき集めようとした。千尋さん。莉奈。僕が彼女たちの名前を思い出したのは、ニュースで彼女たちの悲劇的な死を知った後だ。それまでは、彼女たちの存在そのものが、僕の脳内から完全にパージされていた。そして、そのパージが発生したタイミング。一度目は、図書館でルナと出会い、彼女に強烈に心を惹かれた、あの激しい頭痛の直後。二度目は、昨日、ルナと唇を重ね、彼女への愛しさを決定的なものにした、あの激痛の直後。「ルナさんを愛するたびに……誰かが、消える?」パズルのピースが、おぞましい絵の具で染まりながら繋がっていく。僕の心には、五人の彼女がいたはずだ。咲良、あかり、結衣。そして、僕の記憶から消えた、千尋さんと莉奈。合わせて、五人。「僕は、同時に五人までしか愛せない……?」愕然とした言葉が、乾いた部屋に響いた。五角形の完璧なバランス。それが、僕の精神を保つためのシステムだった。だが、そこへルナという「六人目」が介入してきた。僕が彼女を愛し、僕の心の中に迎え入れようとした瞬間、僕の脳はキャパシティを超え、溢れ出た「誰か一人」を強制的にシステムから排除した。そして、排除された人間は。記憶を消されるだけでなく、物理的な「死」によって、この世界からも完全に消去される。「嘘だろ……。僕は同時に五人までしか愛せない? 六人目を愛したら、誰かがランダムに消されて、一週間以内に死ぬっていうのか……!?」あまりの荒唐無稽さに、脳が理解を拒否しようとする。 しかし、現実に二人の命が失われているのだ。僕の番号を握りしめたまま千尋さんは死に、僕の記憶から消えた莉奈は冷たいコンクリートの上に墜ちていった。「僕のせいだ……。僕が、ルナさんを愛してしまったから、二人は殺されたんだ……!」僕は激しく頭を抱え、床に額を擦り付けながらむせび泣いた。喉の奥から、獣のような、掠れた慟哭が漏れ出る。 なんて恐ろしいルールだ。僕の脳は、僕の心は、一体どうなってしまっているんだ。



 これ以上、誰も愛してはいけない。新しい彼女。ルナを拒絶しなければ、残された咲良たちも、同じように消されて死んでしまう。「もう、誰のことも好きにならない。ルナさんとも、二度と会わない……!」そう、強く心に誓う。しかし、その誓いを立てた瞬間にも、僕の胸の奥からは、ルナのあの寂しげな微笑みと、ひんやりとした唇の感触が、甘美な毒のように湧き上がってくる。 理屈では分かっている。これ以上惹かれてはいけないと。 けれど、僕の愚かな心は、彼女を求める衝動を止めることができない。「やめてくれ……僕の心を、僕から奪わないでくれ……!」自分の身体でありながら、自分のものではないような、制御不能な恋心。僕は、自分の脳内に巣食うおぞましい獣の気配に、ただただ怯え、身体を丸めて震えることしかできなかった。



 その日の午後。大学へも行かず、部屋に引きこもっていた僕のスマートフォンが震えた。 画面に表示されたのは、咲良の名前だった。僕は恐る恐る、通話ボタンを押した。「……もしもし、咲良?」「あ、湊くん! やっと繋がった。昨日から全然連絡取れないから、心配したんだよ?」咲良の優しく、少し弾んだ声がスピーカーから流れてくる。その声を聞いた瞬間、僕の目から再び涙が溢れそうになった。生きている。咲良は、まだ僕の記憶の中にいて、こうして生きている。「ごめん、咲良。ちょっと体調を崩しちゃって、部屋で寝込んでたんだ」「えっ、大丈夫!? 今から看病に行こうか? お粥とか、作ってあげる。私、湊くんの力になりたいの」「ううん、大丈夫だよ。ありがとう。でも、今は少し一人で休ませてほしいんだ」「そっか……無理しないでね。私、ずっと待ってるから。湊くんのこと、大好きだよ」「大好き」というその純粋な響きが、今の僕には、ガラスの破片のように突き刺さる。 彼女たちの僕への愛は本物だ。そして、僕の彼女たちへの愛も、決して嘘ではなかった。なのに、僕が「六人目」に現を抜かしたせいで、その純粋な愛が、彼女たちを死へと追いやる死神の鎌へと変貌してしまう。その時、ふと、僕の頭の中に莉奈の最期の瞬間がよぎった。パージされた側には、僕との楽しかった記憶が残っているのだろうか。もしそうなら。自分を完全に忘れてしまった、冷たい目をした僕に見つめられた時、彼女たちはどんなに絶望しただろう。僕はいたたまれなくなり、部屋を飛び出した。向かったのは、莉奈が転落死したという複合商業ビル「アトリエ・スクエア」の裏手だった。規制線が張られ、うっすらと血の跡が残るアスファルト。 その場に立ち尽くし、僕は祈るように目を閉じた。「……あ」背後に、誰かの気配を感じて振り返る。そこに立っていたのは、一人の少女だった。僕の記憶の引き出しを必死に探る。あかりだ。僕の三人の恋人のうちの一人、あかりが、そこに立っていた。彼女は、僕の顔を見るなり、目から大粒の涙をこぼした。「……湊、先輩?」「あかり……? どうして、ここに……」「私……私、先輩に会いたくて。でも、先輩、最近全然連絡くれなくて。莉奈が死んじゃって、怖くて、怖くて……」彼女は僕の胸に飛び込んできた。その身体は、小刻みに激しく震えている。 彼女には、莉奈との思い出も、僕との思い出も、すべて残っているのだ。なのに、今の僕の目には、彼女が「いつ消えてもおかしくない、危うい存在」にしか見えなかった。僕は、彼女の肩をそっと押し戻した。その目は、おそらく、あかりがこれまでに見たこともないほど、冷たく、怯えに満ちたものだった。「……湊先輩? どうして、そんな目で私を見るの?」あかりの瞳に、深い絶望の色が広がる。「あ、あの時の優しい先輩は、どこに行っちゃったの? どうして……? あんなに優しかったのに、君は、だれ……?」彼女の言葉が、僕の胸をナイフのように切り裂いた。僕が彼女を忘れたわけではない。まだ、あかりの記憶は僕の中にある。けれど、僕が「これ以上関わってはいけない」と心を閉ざしたことで、彼女には僕が、自分を忘れた冷酷な他人のように見えてしまったのだ。「違うんだ、あかり……!」僕は耐えきれず、彼女の華奢な身体を強く抱きしめた。涙が、あかりの肩を濡らしていく。「ごめん、ごめんね……! 僕が馬鹿だったんだ。もう、これ以上は誰も愛さない。君たちだけを、一生愛し続けるから……! だから、僕のそばにいてくれ、あかり……!」あかりは僕の背中に手を回し、しがみつくようにして泣きじゃくった。彼女の体温を感じながら、僕は心の中で、ルナとの決別を誓った。あの図書館の女性は、僕の世界を壊す悪魔だ。もう二度と、彼女の番号にかけることも、彼女の顔を見ることもない。僕はこの手の中にある、大切な平穏を全力で守り抜く。



 しかし。その時、僕の背後、少し離れた路地の影から。コン、コン、と、乾いた音が響いた。それは、僕の部屋のドアを、あるいは僕の心の壁を、静かに、しかし容赦なく叩く、あのルナのノックの音に酷似していた。夕闇が、僕たちの足元を静かに侵食していく。 僕がどれだけ拒絶しようとも、世界の「破滅への秒読み」は、すでに止めることのできない領域へと突入していた。


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