序章 愛のキャパシティ
僕は、完璧な五角形が好きだ。大学四年生の神代湊。それが僕の社会的な記号だ。就職活動をのらりくらりとかわしながら、卒業までのモラトリアムを貪っている、どこにでもいる平凡で気弱な青年。声を荒らげることもなければ、誰かと激しい対立を起こすこともない。友人たちからは「優柔不断だけど、本当に優しい奴」という、都合の良い評価を与えられている。けれど、僕の優しさは、そんな平坦な言葉で片付けられるものではなかった。僕には、本気で、命をかけるようにして愛している恋人が五人いた。
「湊くん、はい、あーん」
土曜日の昼下がり、明るい陽光が差し込むカフェの片隅で、大学の同級生である咲良が、ケーキのフォークを僕の口元に差し出していた。ふんわりとしたパーマをかけた栗色の髪が揺れ、彼女特有の甘いシャンプーの香りが鼻腔をくすぐる。僕は目を細め、彼女の好意をそのまま口で受け止めた。「おいしい。咲良の選ぶお店は、いつもセンスがいいね」 「もう、お世辞ばっかり。でも、湊くんが喜んでくれるなら何でもいいや」咲良は嬉しそうに頬を染め、僕の手の甲に自らの手を重ねてくる。その温もりを愛おしく感じながら、僕は心の中で、彼女に注ぐための「愛」の回路を全開にしていた。嘘偽りはない。僕は目の前の咲良を、世界で一番愛している。
そしてその翌日、僕は日曜日を丸ごと使って、少し大人びたシックなスーツに身を包んだ女性と並んで歩いていた。 年上のオフィスレディ、千尋さん。彼女は僕の隣で、少し疲れた様子で微笑んでいる。「湊くんといると、本当に心が休まるわ。仕事の嫌なことも、全部忘れちゃう」「千尋さんが毎日頑張っているのを、僕は知っていますから。週末くらい、僕に甘えてください」僕はそっと彼女の細い肩を抱き寄せた。千尋さんは僕の胸に頭を預け、安らかな吐息を漏らす。この瞬間、僕の脳内を満たしているのは、千尋さんに対する純度百パーセントの恋愛感情だった。彼女を守るためなら、何だってできると本気で思っている。
さらに月曜日にはバイト先の後輩である元気いっぱいの女子高生、火曜日にはSNSで知り合った奔放なギャル、水曜日には他大学に通うおっとりとした読書家の女の子。
「みんなを同じように、本気で愛している」
世間の倫理観に照らし合わせれば、それは最悪の不貞行為であり、軽蔑されるべき二股どころか五股の裏切り行為に他ならない。しかし、僕の胸中に一点の曇りもなかった。僕は誰一人として妥協で付き合っていなかった。五人の彼女たち全員が、僕の精神を形作り、この過酷な世界で正気を保つための、欠かすことのできない「唯一無二のピース」なのだ。僕の精神世界には、強固な五角形の結界が張られていた。それぞれの頂点に彼女たちが配置され、中央にいる僕を全方位から支えている。この完璧なバランスが保たれている限り、僕の日常はどこまでも平穏で、優しさに満ちていた。誰も傷つけない。誰も悲しませない。僕はそのために、分刻みのスケジュールを完璧に管理し、全ての恋人に等しい熱量の愛を分配し続けていた。その歪んだ均衡が、ある火曜日の午後に崩れるなどとは、夢にも思わずに。
その日は、夕方からギャルの恋人である莉奈と会う約束になっていた。少し時間が空いた僕は、お気に入りの大学図書館の奥、あまり人が立ち入らない洋書コーナーの閲覧席に身を置いていた。静謐な空気と、古びた紙の匂いが満ちる空間。そこは、僕が五つの愛のスケジュールを整理し、頭をリセットするための大切な避難所だった。ノートを開き、今週の予定を頭の中で反芻する。咲良とは木曜日に映画に行く。千尋さんとは金曜日の夜に食事をする。莉奈とは今日の夜から朝まで。残りの二人とは。
「それ、面白いですか?」
静寂を切り裂くように、すぐ近くから涼やかな声が降ってきた。驚いて顔を上げると、いつの間にか僕のテーブルの向かい側に、一人の女性が立っていた。彼女は、僕がこれまで出会ったどんな女性とも違っていた。肩にかかる程度の艶やかな黒髪に、吸い込まれそうなほど深い黒い瞳。陶器のように白い肌に、静かな意志を湛えた薄い唇が印象的だった。身につけているのは、シンプルだがどこか品のある、深い紺色のワンピース。図書館の薄暗い空気と同化するような、圧倒的にミステリアスな佇まいだった。彼女の視線は、僕の手元に向いていた。僕が広げていたのは、古い都市計画に関する学術書だった。「あ、いや……特に面白いというわけでは。なんとなく、眺めていただけです」僕は気恥ずかしさに、小さく微笑みながら本を閉じた。いつもの僕なら、見知らぬ他者との関わりを最小限に抑えるため、丁寧に会釈をしてその場を立ち去るはずだった。無用な人間関係は、僕の精緻な五角形を脅かすノイズになり得るからだ。しかし、彼女から漂う不思議な気配に、僕の身体は縫い付けられたように動かなくなっていた。「私はそれ、とても興味深いと思います」彼女は音もなく向かいの席に腰を下ろし、僕をじっと見つめた。「配置の美学、とでも言うのかしら。限られた空間の中に、いかにして最適な関係性を築くか。人間関係も、同じだと思いません?」心臓が、どくりと大きく跳ねた。まるで、僕の頭の中にある五角形の設計図を覗き見られたかのような錯覚に陥る。「……そう、ですね。配置が乱れると、全体が壊れてしまいますから」 「ふふ、やっぱり、あなたなら分かってくれると思った」彼女は小さく、しかし美しく微笑んだ。その微笑みを見た瞬間、僕の胸の奥で、何かがパチリと音を立てて弾けた。なんだ、この感覚は。 心臓の鼓動が不自然なほど速くなり、喉の奥がカラカラに乾いていく。彼女の黒い瞳から目が離せない。頭の中に、これまでに経験したことのない、強烈で奔流のような感情が流れ込んでくる。
もっと、彼女を知りたい。の人を、僕の世界に入れたい。
それは、五人の恋人たちに抱いているものとは明らかに異なる、しかしそれらを遥かに凌駕するほどの、暴力的なまでに純粋な「恋心」だった。気づけば、僕は生まれて初めて、自らの意志で制御できない衝動に突き動かされていた。「あの、もしよければ……名前を教えてくれませんか?」「私は、ルナ。あなたは?」「湊、です。神代湊」ルナは机の上に置かれていた僕のノートの端を破り、持っていたペンで滑らかに数字を書き込んだ。「これ、私の連絡先。気が向いたら、連絡して」彼女が席を立ち、去っていく姿を目で追う。その華奢な背中が本棚の影に消えた瞬間。「っ……あ、あ、頭が……!」凄まじい激痛が、僕の脳天を貫いた。世界がぐにゃりと歪み、色彩が混ざり合う。激しいめまいに襲われ、僕はテーブルに突っ伏した。視界が真っ暗になり、耳の奥でキーンという不快な金属音が鳴り響く。冷たい冷や汗が全身から噴き出し、呼吸がうまくできなくなる。僕はただ、割れそうな頭を両手で抱え、嵐が過ぎ去るのを待つしかなかった。どれほどの時間が経っただろう。ようやく痛みが引き、顔を上げた時、図書館の窓の外はすっかり夕闇に包まれていた。僕はふらつく身体を起こし、机の上のノートに目をやった。そこには、ルナが書き残していった電話番号が、はっきりと残っていた。心臓はまだ、彼女への強い憧れで脈打っている。しかし、その時の僕はまだ気づいていなかった。僕が彼女に心を奪われたその瞬間に、僕の世界の土台が、取り返しのつかない形で崩壊し始めていたことに。
翌朝、僕は自室のベッドで目を覚ました。眩しい朝陽が差し込む中、ひどく頭が重い。昨日の図書館での出来事は、まるで熱病にかかった夢のようだった。けれど、机の上に置かれたノートの切れ端が、ルナという存在が現実であることを証明している。「……とにかく、みんなに連絡を入れないと」僕は無意識のうちに、毎朝の日課である「恋人たちへの朝の挨拶」を送るため、スマートフォンを手に取った。メッセージアプリを開き、いつものようにグループチャットや個別のトーク履歴を見ようとした、その時。指先が、画面の上でピタリと止まった。「……あれ?」妙な違和感が、胸の奥をチクリと刺した。僕は個別トークの画面を上から順にスクロールしていく。咲良。 莉奈。 それから、高校時代の後輩のあかり。 他大学の結衣。
「…………あと、一人は?」
画面を見つめたまま、僕は首を傾げた。確か、僕にはもう一人、大切な恋人がいたはずだ。毎日のスケジュールを埋め、僕を支えてくれていた、もう一人の大切なピース。しかし、その子の名前が、顔が、声が、どうしても思い出せない。スマホの連絡先をいくら探しても、登録されている彼女は四人だけだった。トーク履歴にも、不自然な空白や消去された跡はない。もともと、最初から四人のアカウントしか存在していなかったかのように、整然とした画面がそこにある。
「おかしいな。僕は、何を考えているんだろう」
自嘲気味に呟き、こめかみを指で揉む。「僕には四人の彼女がいて、それぞれを全力で愛している。うん、そうだ。昨日までは五人いたような気がしたけれど……そんなの、ただの勘違いだ。いくら僕でも、同時に五人も付き合えるわけがないじゃないか。四人でも奇跡的なバランスなのに」そう、自分を納得させた。思い返せば、四人の関係を維持するだけでも、僕の精神はギリギリのモラトリアムを維持しているのだ。五人目の恋人がいたなんて、きっと昨日の図書館でのひどい頭痛が見せた、ただの白昼夢に違いない。「おはよう、咲良。今日も頑張ろうね」「莉奈、昨日はドタキャンしちゃってごめん。体調がちょっと悪くて。今夜埋め合わせさせて」僕はてきぱきと、四人の彼女たちにメッセージを送り始めた。スマホの画面の向こうから、すぐに嬉しそうな返信が返ってくる。その温かい言葉の数々に触れていると、胸の奥の不気味な違和感は、すっかり消え去っていくように思えた。やはり、僕の世界は完璧だった。咲良がいて、莉奈がいて、あかりがいて、結衣がいる。この四人がいれば、僕の人生はそれだけで十分に満たされている。僕はルナの連絡先が書かれた紙をポケットに押し込み、大学へ行くために身支度を始めた。頭の隅で、昨日出会った彼女のミステリアスな黒い瞳が、何度も何度も蘇り、僕の心を甘く締め付けていたけれど、僕はそれを「新しい恋の予感」として、都合よく心の奥にしまい込んでいた。
大学での講義を終え、夕方。僕は莉奈と待ち合わせをしていた駅前の、少し騒がしい居酒屋のカウンター席にいた。「もー、湊っち遅い! 待ちくたびれて、莉奈もう干からびるかと思ったじゃん!」派手なネイルを施した手を振りながら、莉奈がぷくっと頬を膨らませる。彼女の明るい笑顔と、屈託のない話し声は、僕の心をいつも一瞬で軽くしてくれた。「ごめんごめん、講義が少し長引いちゃって。お詫びに、莉奈の好きなもの、なんでも頼んでいいよ」「ホント!? じゃあ、生春巻きと、ポテトは大盛りね!」莉奈は一瞬で機嫌を直し、メニュー表を嬉しそうにめくり始めた。僕はその様子を微笑ましく見つめながら、心の底から彼女への愛しさを感じていた。彼女の隣にいる時の自分は、何にも縛られない自由な存在になれる。僕にとって莉奈は、絶対に失いたくない、大切な光だ。「そういえばさ、湊っち」 莉奈がポテトをつまみながら、ふと思い出したように言った。「昨日、駅の裏の交差点でヤバい事故あったの知ってる?なんか、若い女の子がトラックにドカンって轢かれたらしくてさー。マジ怖くない?」「え……そうなの? 知らなかったよ」「ネットのニュースでも超話題になってる。なんか、亡くなった子、この近くの会社に勤めてるオフィスレディの人だったんだって」オフィスレディ。その言葉を聞いた瞬間、僕の脳裏を、得体の知れない寒気が通り過ぎた。なんだろう、この感覚。心臓が、冷たい手でぎゅっと握りつぶされたような、嫌な予感が全身を駆け巡る。「……ねえ、莉奈。それ、どんな人か分かっているの?」「んー、名前は確か……あ、これこれ。スマホのニュース出てる」莉奈が画面を僕に向けて差し出してきた。そこに映し出されていたのは、ニュースサイトの無機質なテキストだった。「昨日午後八時頃、市内の交差点にて、歩行者の女性が大型トラックにはねられ死亡する事故がありました。死亡したのは、近くの会社に勤務する千尋さん(26)。現場は信号機のある交差点で、警察はトラック運転手の前方不注意として」千尋。その二文字が、僕の視界の中で異常なほど巨大に膨れ上がった。「ちひろ……さん……?」口の中で、その名前を呟いてみる。全く聞き覚えのない名前だ。僕の知り合いに、そんな年齢の女性はいないはずだ。スマホの連絡先にも、そんな名前は登録されていない。なのに。どうして、涙がボロボロと目から溢れてくるのだろう。「えっ、ちょっと、湊っち!? なんで泣いてるの!?」 莉奈が驚いて、箸を落としそうになりながら僕の顔を覗き込んできた。「え……? あ、あれ……?」自分の頬を触ると、確かに冷たい涙が幾筋も伝っていた。胸が苦しい。張り裂けそうなほど痛い。まるで、自分の一部が根こそぎ引きちぎられて、暗い海の底に沈められてしまったかのような、耐え難い喪失感が僕を襲っていた。「おかしいな……なんでだろう。この人のことなんて、僕、全然知らないのに……」僕は必死に涙を拭った。しかし、溢れ出る涙は一向に止まらない。ニュースの記事は、さらにこう続けていた。「現場から回収された亡くなった女性のスマートフォンからは、事故の直前まで、特定の電話番号へ何度も着信が繰り返されていたことが判明。警察は、女性が直前まで通話中、あるいは連絡を試みようとしていた可能性も含め」ニュースの画面には、その「特定の電話番号」の下四桁が、プライバシー保護のために一部伏せられた状態で記載されていた。
「***ー****ー5630」
僕の心臓が、ドクン、と大きく脈打った。その番号。 下四桁の「5630」は。 他ならぬ、僕のスマートフォンの電話番号だった。「……なんで?」ガタガタと、全身の震えが止まらなくなる。亡くなった「千尋さん」という女性は、死ぬ直前、僕の番号に何度も何度も電話をかけていたのだ。けれど、僕のスマホには、彼女からの着信履歴なんて一端も残っていなかった。いや、そもそも僕は彼女を知らない。僕の恋人は、咲良と、莉奈と、あかりと、結衣の四人だけだ。
頭の奥が、またあの図書館の時と同じように、猛烈にズキズキと痛み始める。パズルのピースが、一箇所だけ、ぽっかりと不自然に抜け落ちているような感覚。そこには、確かに何かがあった。僕を愛し、僕が愛した、誰かが存在していたはずなのだ。居酒屋の騒音の中、僕は呆然とスマートフォンを見つめ続けた。画面に映る、見知らぬ女性の悲惨な死のニュース。そして、ポケットの中で静かに主張する、ルナの連絡先が書かれた、小さな紙の切れ端。
僕は、本当に何も分かっていなかった。自分が、どれほど残酷で、どれほどおぞましい「ルール」の渦中に立たされているのかを。ただ、冷たい涙だけが、僕の知らない「誰か」のために、いつまでも流れ続けていた。「……この人、誰だろう?」僕は、声にならない声で、ぽつりと独りごちた。「なんで……僕の番号を、知っていたんだ?」




