最終章 狂気の選別者
「ねえ、湊くん……? どうしたの?」アパートの薄暗い部屋の中で、咲良は僕の胸に顔をうずめたまま、不安そうに声を漏らした。彼女の小さな肩は、僕を失う恐怖と、死への怯えで微かに震えている。僕はゆっくりと、彼女の身体を自分から引き離した。咲良は僕の顔を見上げ、その瞬間、息を呑んで凍りついた。彼女が見つめる僕の目は、先ほどまで涙を流し、「神様、彼女を奪わないでくれ」と狂乱していた「怯えた被害者」のそれとは、完全にかけ離れていた。そこには湿り気など微塵もない。驚くほど冷徹で、感情の揺らぎが一切排除された、深く透き通った硝子のような瞳。「み、なと……くん……?」咲良の声が、強張る。彼女は直感的に理解したのだ。目の前にいる男が、自分の知っている「優柔不断で優しい、大好きな神代湊」ではない、まったく別の「何か」に変貌してしまっていることに。「ああ、ごめんね、咲良。ちょっと疲れただけなんだ」僕の口から滑り出た声は、あまりにも平坦で、低く、穏やかだった。そこに潜む圧倒的な違和感に、咲良は後ずさりしようとした。けれど、僕の長い指先が、彼女の華奢な手首を優しく、しかし万力のような力強さで捉えて離さない。「湊くん、痛いよ……離して、お願い……!」「痛い? おかしいな。僕はいつも通り、君を愛しているよ。最後の、五角形の一角としてね」僕はふっと微笑んだ。それは優しく、美しい笑顔だった。しかし、咲良の目には、それが一切の血の通わない、能面のような不気味な造形物にしか見えなかった。
すべては、僕の描いたシナリオ(嘘)だった。最初から、この世界に「不可抗力なルール」なんて存在していなかった。「自分でも制御できない、ランダムに消去される脳」なんていう哀れな被害者設定は、僕が自分自身の歪んだエゴを正当化し、周囲を騙し、そして万が一の時に「自分は悪くない」と言い訳するための、あまりにも完璧な自己防衛の嘘に過ぎなかった。僕は最初から、知っていた。自分の都合が悪くなった恋人を、自分の意志で、冷徹に「選んで」抹殺していたことを。千尋さんも、莉奈も、あかりも、結衣も、僕が新しい刺激を求める過程で邪魔になったから、僕自身の明確な意思で切り捨てたのだ。そして、一度に愛せる五人のキャパシティを狂わせないために、彼女たちの価値が下がるたび、僕は街やアプリで「新一号」「新二号」といった身代わりのパーツを即座に仕込み、常に五人のポートフォリオを最適に維持し続けてきた。僕の脳内というプライベート・ディストピアで、彼女たちの価値を判定する極秘の市場が、冷酷なアラートを鳴らし始める。 脳のコンソールに、彼女たちの「価値」を示すパーセンテージが、無機質な暴落レートとして弾き出されていった。「千尋」百パーセント暴落「莉奈」百パーセント暴落「あかり」百パーセント異常値検出。価値の暴落した旧いコンテンツは、速やかに市場から退場させなければならない。代わりとなる新一号から新四号までの補充用パーツは、すでに手元に揃っている。そして今、満を持して、規格外の六人目であった「ルナ」を本命として五角形へ迎え入れるため、目の前にいる最後の一人の価値が、無慈悲にゼロへと書き換えられていく。「咲良」百パーセント暴落。「あ……ああ……」咲良は僕の手首を掴む指の力が強まるにつれ、絶望に顔を歪めた。「嘘……湊くんが、みんなを……?嘘でしょ……? あんなに優しくしてくれたのに……莉奈ちゃんも、あかりちゃんも、あなたが……! 私たちの代わりに、あの知らない女の子たちを付き合わせたのも、全部……!」「優しいよ、僕は誰に対しても本気で優しいんだ。でもね、五角形を美しく維持するためには、整理整頓が必要なんだよ」僕はもう片方の手で、スマートフォンを操作する。画面には、僕の精神世界を模した五角形のインターフェースが浮かび上がっていた。そこには、僕がその都度補充してきた「新一号」「新二号」「新三号」「新四号」のアイコンが、冷機を放ちながら並んでいる。僕は、初期メンバーの生き残りとして、最後の一角に置かれていた「咲良」のアイコンに指を触れた。そして、冷徹に、迷うことなく。新しく追加する「ルナ」のスペースを作るために、咲良を最下位へとドラッグ&ドロップした。「ごめんね。六人目ができたら、君は消えるんだ」
カチリ。
その瞬間、僕の脳内から、咲良に関するすべての記憶がサラサラと砂のように崩れ落ち、消滅していった。彼女とどこで出会ったのか。どんな言葉を交わしたのか。どんな風に愛し合ったのか。僕の海馬から、彼女の存在を示すデータが完全にデリートされる。「いやあああ! 私を忘れないで! 忘れないで、湊くん!!」自分がシステムから排除され、一週間以内に「死の処理」が執行されることを理解した咲良が、狂ったように泣き叫び、僕の胸を叩く。しかし、僕の瞳には、もう彼女の姿は映っていない。僕はただ、目の前で泣き叫ぶ「見知らぬ女の子」を、一切の血の通わない、しかし最高に美しい「理想の彼氏」の笑顔で見つめ返していた。
「君は、だれ?」
その一言が、咲良の魂を完全に粉砕した。一週間後。抜けるような青空が広がる午後。駅前の洗練されたオープンカフェのテラス席に、僕はいた。心地よい風が吹き抜け、テーブルの上のアイスコーヒーの氷が、カランと涼しげな音を立てる。テラスの壁に取り付けられた大型モニターからは、無機質なニュースキャスターの声が流れていた。「本日未明、市内の踏切内にて、近くに住む大学四年生、咲良さん(22)が電車にはねられ死亡しました。警察は、遮断機が下りた後に踏切内に立ち入った形跡があることから、自殺と事故の両面で」ニュースを見つめながら、僕は小さく息を吐いた。「咲良さん」という名前にも、その悲惨な死の状況にも、僕の心は一片の傷も負わなかった。僕の脳内からは、すでに彼女を哀れむためのデータそのものが消去されているからだ。「ねえ、湊くん。何見てるの?」横から、楽園の鈴を転がすような甘い声が僕を呼んだ。振り向くと、そこには艶やかな黒髪を揺らしたルナが、嬉しそうに僕の手を握りしめていた。「ううん、なんでもないよ」僕はルナの手を優しく握り返し、微笑みかけた。「それより、みんな、お待たせ。何から食べようか?」僕のテーブルの周りには、ルナを含めた「新しい五人の恋人たち」が、華やかに咲き誇る花のように座っていた。咲良が消えた枠にルナが収まり、そして僕が完璧なタイミングで仕込んでおいた「新一号」「新二号」「新三号」「新四号」が脇を固めている。それぞれタイプの違う、僕を心から愛し、僕が心から愛している、新しい完璧な五角形のピースたち。 彼女たちは、お互いの存在を認め合いながらも、僕という太陽を中心に置くことで、奇妙な調和を保って楽しそうに笑い合っている。
「湊くんと付き合えて、私、本当に幸せ!」
「私も! 湊くん、世界で一番優しいんだもん」
恋人たちの無邪気な賛辞に囲まれながら、僕は「理想の彼氏」としての完璧な笑顔を浮かべていた。人間の心は、毎日無意識のうちに人間関係の断捨離を行っている。不要になった連絡先を消し、過去の恋人を忘れ、自分にとって都合の良い人間だけを身の回りに配置して、自らの精神の平穏を保っている。僕は、ただそれを少しだけ、徹底的に、美しく、自分の手で実行しているに過ぎない。
僕の描く新しい五角形は、今日も一点の曇りもなく、完璧に機能している。楽しそうに笑う五人の美女たちの中心で、僕はただ、透き通った瞳で次の最適化の機会を、静かに待ち続けていた。
僕は、完璧な五角形が好きだ。
【エピソード一 完】




