第4話 緑のエプロンを脱いだ夜に
4月上旬。ARX PLAZA埼玉白神店は、新生活を始める人々のまとめ買い需要と、春のガーデニング祭りが同時に押し寄せ、1年で最も壮絶な「春の繁忙期」を迎えようとしていた。
怒涛の土曜日営業が終わり、閉店後の静まり返った事務所。
大宮は、パソコンの画面を死んだ魚の目で眺めながら、本日分の在庫データを打ち込んでいた。
「よし……これで終わりだ」
キーボードのエンターキーを静かに叩く。
この4月で、大宮と日用品の宇佐美結衣は入社3年目に突入した。2年目社員という甘えは許されず、後輩の手本となるべき中堅のポジションだ。ちなみに、園芸館の『駄犬』こと犬飼陸は奇跡的にギリギリの単位で2年生に進級でき、非の打ち所がない看板娘の水野楓は大学4年生になり本格的な就活シーズンを迎えていた。
「お疲れ様ですぅ、れんれん……。私はもう、完全に灰になったよぉ……」
ヨロヨロと幽霊のように事務所に入ってきたのは、同期の結衣だった。
茶髪のショートボブはあちこちハネており、エプロンのポケットからはいつも通りマジックが4本はみ出している。新生活用の衣装ケースや組み立て家具を1日中品出しし続けたせいで、体力の限界を迎えているようだった。
「お疲れ、宇佐美。3年目一発目の週末はキツいな」
「本当にそれ! 新入社員の子たちの面倒も見なきゃだし、自分の仕事も終わらないし! ……ねぇ、れんれん。このあと、ちょっと付き合ってよ」
「断る。俺は1秒でも早く帰って寝る」
「冷たいなぁ! 同期のよしみで、今日くらいはお互いの労をねぎらおうよぉ。駅前の居酒屋、私が1杯目奢るから!」
「……1杯だけだぞ」
『奢る』という言葉と、3年目になった初週末の圧倒的な疲労感に負け、大宮は重い腰を上げた。
――23時、蓮沼駅前の大衆居酒屋。
「お疲れ様ーー!!」という結衣の元気な声と共に、ジョッキがぶつかり合う。
緑のエプロンを脱ぎ、私服に着替えた結衣は、いつものドタバタした雰囲気が少し薄れ、年相応の綺麗な女性に見えた。……が、その中身はいつも通りの宇佐美結衣だった。
「ぷはぁーっ!! 生き返るぅ!!」
結衣は生ビールを半分ほど一気に飲み干すと、勢いよくジョッキを机に置いた。
「ちょっと聞いてよれんれん。今日入ってきた新人の男の子さぁ、私が『モップ持ってきて』って言ったら、間違えて『デッキブラシ』持ってきちゃってさ。可愛いんだけど、売場の床をデッキブラシで擦ったらワックス剥がれちゃうよぉ!」
「可愛いもんだろ。俺のところの犬飼なんて、2年生になった途端『れんさん! 俺はもう先輩っすから、25キロの土を一度に4袋担げます!』とか言って、腰をグキッて言わせて使い物にならなくなってたぞ。進級できたのが奇跡のバカだからな」
「あはは! 犬飼くんらしい!」
最初は仕事の愚痴や、水野の就活を応援する話など、ほのぼのとした日常会話で盛り上がっていた。
しかし、結衣は日中の疲れが溜まっていたのだろう。いつもよりアルコールの回りが異常に早かった。生ビールからレモンサワー、そして梅酒のロックへとテンポよくジョッキを空けていくうちに、結衣の目が完全にトロンとしてきた。
「……ねぇ、れんれぇん」
「(あ、これはマズいゾーンに入ったな)」
大宮が危険を察知した時には、すでに遅かった。
結衣はトスッと大宮の肩に頭を預けてきた。ほんのりと柑橘系の洗剤の香りと、お酒の甘い匂いが鼻をくすぐる。
「れんれんはさぁ、いつも冷たいけど、本当はすっごく優しいよねぇ……。私が洗剤タワー崩したときもさ、文句言いながら助けてくれたし……。私、れんれんが同期で、本当に良かったなぁって……」
「おい宇佐美、急にデレるな。居酒屋のテーブルの上でゲシュタルト崩壊を起こすのはやめろ。あと声が小さくて聞き取りづらい」
「むぅ……起きてるもん……」
そう言った3秒後、結衣は「すぅ……」と小さな寝息を立てて、完全に寝落ちした。
「おい、宇佐美。起きろ、店長がストアウォークに来るぞ」
試してみたが、ピクリとも動かない。
「……はぁ。最悪だ。要領よく飲んで、早く帰るはずだったのに」
大宮は本日最大のため息をつくと、お会計を済ませ、結衣の荷物をすべて自分の肩にかけた。そして、完全に脱力してふにゃふにゃになった結衣を、おんぶするようにして背負い上げる。
「うぅ……重くはないが、めちゃくちゃ歩きづらい」
居酒屋を出ると、埼玉の夜風はまだ少し肌寒かった。
背中から伝わる結衣の体温と、規則正しい呼吸。いつもは猪突猛進でうるさい同期が、自分の背中で小さくなって眠っている。大宮は少しだけ、普段は見せない優しい目をしながら、駅のタクシー乗り場へとゆっくり歩いた。
「……んぅ……れんれん……粗大ゴミに出さないでね……」
結衣が背中で、寝言をモゴモゴと呟く。
「出すかよ、バカ」
大宮は小さく苦笑いした。
タクシーを拾い、結衣の財布から定期券を抜き出して住所を確認し、なんとか彼女の自宅のマンションまで送り届ける。オートロックの前で結衣の母親に引き渡す際、「いつも娘がすみません」と平謝りされ、大宮は「いえ、同期ですので」と礼儀正しく頭を下げた。
――翌日の日曜日、13時。
大宮がいつもの狭い喫煙所でタバコを吸っていると、猪狩が缶コーヒーを持って現れた。
「大宮くん! 聞いたよぉ! 昨日の夜、宇佐美さんと飲みに行ったんだって? 日用品のマネージャーが『宇佐美が朝から顔を真っ赤にして、大宮くんに合わせる顔がないって棚の裏に隠れてる』って言ってたよ!」
「……あいつ、記憶はあるんですね」
大宮は灰皿に灰を落としながら、フッと口元を緩めた。
そこへ、物陰から顔を半分だけ出した結衣が、マジックを握りしめた手で小さくペコリと頭を下げてくるのが見えた。
「猪狩さん。俺の今日のサボり時間を確保するために、宇佐美に品出しの命令を出してきてください。10倍の速さで」
「あはは、照れ隠しかな? 分かったよぉ!」
大宮の吐き出した紫煙が、春の埼玉の青空へと溶けていく。
ARX PLAZA白神店の3年目は、少しだけ変化した二人の距離感を乗せて、今日も騒がしく、そしてほのぼのと更けていくのだった。
(第5話・完)




