静かなひと時をお過ごしください
次の日、碧玄は再び喫茶『鯨淹』に来ていた。ドアには準備中のプレートが。かれこれ十分程はこのプレートとにらめっこをしている。
時刻は10時50分で、開店時間の10分前。本当は開店後に来るのが筋なのだろうが、いち早く彼に謝りたかった。彼にしたのはただの八つ当たりでしかない。
「あれ?昨日のお客様、でいらっしゃいますか?」
後ろから声をかけられ、振り向くとそこには制服姿の雲珈がいた。
「えっと、はい。マスターに用があって」
「そうでしたか。でしたらこの店の向こう側にマスターのお宅があるので、そちらに行ってみると会えるかもしれません」
「あれ?そういえば、えっと…」
「雲珈で構いません」
どう呼べばいいか悩んでいると雲珈は名前でいいと言ってくれた。
「ありがとうございます。雲珈さんって学校大丈夫なんですか?」
「それはこっちの台詞なんですけどね。今日は学校は午後授業で、私はただ単純に友人と遊んでから学校に行こうという約束をしていただけです。お客様は、どうして?」
「えっと、僕は……」
不登校中だから、とは続けられなかった。この人は何も言わないでいてくれそうだったから。
「言いたくないのであれば無理に言わなくてもいいですよ。それにもう開店時間になりましたし」
腕につけた時計の針は午前11時を指していた。
「本当だ。ありがとうございました」
「困ったときとか身近な人には相談しにくいとか、そういうときは私に言ってくださいね。いくらでも話を聞きますからね」
そういって雲珈は駅の方向へ歩いていった。その後ろ姿を眺めていると、不意に背後で、カランという音が聞こえた。
「お客様。開店時間になりましたので、中へどうぞ」
店の中から雲珈とは別の従業員が声を掛ける。プレートはいつの間にかOPENに変えられていた。
店に入ると案内された席はまたもやマスターの目の前の席だった。
「お客さん、今日は何を飲む。」
「…ブレンドで」
碧玄はぶっきらぼうに告げる。気まずくて相手の顔を見れない。一方的に碧玄が怒って激しく当たっただけのこと。彼に非はなく、寧ろ碧玄に全非がある。
「わかった。」
彼は端的に返事をし、淡々と珈琲を入れる作業に入る。ミルで珈琲豆を挽く音が焦燥に満ちた碧玄の心を鎮める。
―――ああ、やはり珈琲は良いな。
そんな気持ちに浸っていると、店の中から碧玄を呼んでくれた従業員があるものを運んできた。
「ケーキ?頼んでないですけど……」
「マスターからのサービスです」
マスターのほうを向くと一言。
「食べ損ねただろう。」
昨日のことを言っているようだった。
「……昨日はすみません。俺がしたのはただの―――」
「謝罪はいい。」
マスターが被せて言葉を遮る。謝罪を止めて、挽いた豆にお湯を注ぎながら続ける。
「ここの珈琲や軽食を美味いって言ってくれればそれでいい。」
それは喫茶店の客に対する、喫茶店のマスターとしての発言だった。碧玄の目を見て言う。
「昨日は俺も失礼なことを言ってしまったようでな。済まない。」
「謝るのは僕の方で…」
「これでもう終い。この件は解決だ。」
その言葉に驚き、マスターに向かって勢いよく顔を上げる。マスターはもうこっちを見ていなかった。
「珈琲出来たが、飲むか?」
「いただきます」
差し出された珈琲を手に取り、口に運ぶ。口で直接香りを感じる。身に沁み渡り、心を浄化する。
「やっぱり美味い」
「そうか。」
マスターは碧玄の口からその言葉が聞かれると、安堵に表情を崩した。
「静かなひと時をお過ごしください」
呟くようにして放たれたその言葉は、人の少なく、終春と夏至の境に、暑さを一瞬忘れるほど涼しげで、自分に適当な風が吹いた。




