第20話「家族」
地下室に、静寂が落ちる。
残されたのは、焼け焦げた空気と――
血に濡れた、俺だけだった。
なんとか――退けたか。
荒い呼吸の中で、そう思う。
だが、安堵している暇はない。
視線を落とす。
左腕。
そこから、血が溢れ出している。
止まらない。
このままでは――出血で死ぬ。
「……っ」
歯を食いしばる。
まだ終われない。
こんなところで、倒れるわけにはいかない。
近くに転がっていた布を掴む。
乱暴に、だが確実に。
止血をする為、布を巻きつけ締め上げる。
骨が軋むような痛みが走る。
だが――それでも足りない。
「……焼くしか、ないか」
震える右手に、雷を宿す。
微細な放電。
それを――傷口へ叩き込んだ。
「――ああああああああああ!!」
悲鳴が地下室に響き渡る。
肉が焼ける臭い。
神経を引き裂くような激痛。
意識が、白く飛びかける。
倒れるな。
ここで、意識を失えば――終わりだ。
出血は止まった。
「……っ、ぐ……!」
歯を砕くほどに食いしばる。
視界が揺れる。
膝が崩れそうになる。
それでも。
踏みとどまる。
まだ、やることがある。
ポチェティーノ。
あの男を――殺す。
そして。
リュネスを――救う。
それだけが、今の俺を繋ぎ止めていた。
「……行くぞ」
誰に言うでもなく、呟く。
ふらつく身体を無理やり動かす。
一歩。
また一歩。
血を滴らせながら、階段へと向かう。
重い足取り。
それでも、止まらない。
館の奥――最上階へ。
ポチェティーノが待つ場所へと。
……あの男は、まだ気づいていないはずだ。
カティが敗れたなどと。
あの男にとって、カティは“絶対”の守り。
その牙城が崩れたなど、想像すらしていないだろう。
逃げる――そんな発想すら、ないはずだ。
ならば。
終わらせる。
――ここで。
最上階へと辿り着く。
廊下は、妙に静かだった。
足音だけが、やけに響く。
……近衛兵の姿はない。
どうやら館内部の警備は、カティ一人に任せていたらしい。
絶対の守り。
それが、崩れたとも知らずに。
息を整え、奥へと進む。
やがて。
ひときわ異様な扉が現れた。
豪奢。
だが、趣味が悪い。
見せつけるような装飾。
権力と欲望をそのまま形にしたような扉。
――いる。
この先に。
俺は、躊躇なく――蹴り飛ばした。
扉が、轟音と共に吹き飛ぶ。
中にいたのは。
肥え太った中年の男。
いかにも傲慢さを体現したような、貴族の姿。
――ポチェティーノ。
そして。
その隣に――リュネス。
「……」
ほんの一瞬、目が合う。
その瞳に、わずかな驚きが浮かんでいた。
ここにいたのか。
「だ、誰だ!貴様!!」
ポチェティーノは突然の外敵の侵入に狼狽する。
「カティ!カティはどうした!!」
俺は、一歩踏み出す。
床に血が落ちる。
「……カティと、その他の護衛は――俺が始末した」
その言葉に。
ポチェティーノの顔色が、一瞬で変わった。
「な、何だと!貴様……!!」
震える声。
だが、すぐに怒鳴り散らす。
「エルブランシュの学生だろう!私を誰だかわかっているのか!!貴族だぞ!!」
――だから、何だ。
そんなものに、何の価値がある。
「それがどうした」
低く、言い放つ。
「俺は――貴様を殺しに来た」
視線を、突き刺す。
殺意を、隠さずに。
「ひ、ひぃぃっ……!」
ポチェティーノは、椅子から転げ落ちた。
無様に。
情けなく。
……こんな男に。
リュネスが。
あの地下の子供たちが。
犠牲にされてきたのか。
胸の奥で、怒りが膨れ上がる。
許せない。
「46番!こいつを始末しろ!!」
ポチェティーノの叫び。
――46番。
脳裏に、地下で見た手記が蘇る。
唯一の“成功例”。
……やはり。
リュネスのことだったのか。
「はい……」
短く、感情のない返答。
その声と同時に――
リュネスの足元に、闇の魔法陣が浮かび上がる。
黒く。
深く。
底の見えない闇。
詠唱が、始まる。
「…リュネス!やめろ!俺が分からないのか!!」
叫ぶ。
だが――届かない。
「ふふふ……無駄だぁ」
ポチェティーノが、歪んだ笑みを浮かべる。
「奴隷は主の命令に絶対逆らえない」
誇らしげに。
吐き捨てるように。
「……っ!」
ならば――先に殺す。
俺は即座に《雷瞬》を発動。
視界が弾け、ポチェティーノへと飛び込む――
だが。
一瞬、遅かった。
「――《ダーク・グラビティ》」
リュネスの声。
静かで。
感情のない――詠唱。
その瞬間。
頭上に、黒い“球”が現れる。
歪む空間。
重さそのものが具現化したような、闇。
逃げ場はない。
領域に――入った。
「……!」
次の瞬間。
全身に、圧がのしかかる。
押し潰される。
骨が軋む。
内臓が圧縮される。
血液すら、流れを止められたかのように重い。
「……っ、ぐ……!」
立っていられない。
膝をつく。
いや――それでも足りない。
地面に、叩きつけられるように。
ひれ伏す。
全身が、ばらばらに引き裂かれそうな圧力。
「がっ……ぁ……!」
呼吸すら、まともにできない。
肺が潰れる。
空気が入らない。
視界が、ぐにゃりと歪む。
意識が――遠のく。
このまま、沈むのか。
その瞬間。
脳裏に、いくつもの光景がよぎった。
波の音。
砂浜。
差し出された、水とパン。
無言のまま、それを置いていく小さな背中。
エルブランシュの兵士を、迷いなく沈めた闇。
そして――あの細い腕で、俺を引きずり続けた少女。
「……リュ……ネス……!」
掠れた声が、喉から漏れる。
終われない。
ここで、終わるわけにはいかない。
「リュネス……!!」
圧に押し潰されながら、それでも叫ぶ。
「リュネス……俺を……俺を見ろ!!」
その声が――届いたのか。
ほんの僅か。
リュネスの視線が、こちらを向いた。
虚ろだった瞳が、わずかに揺れる。
「だめ……もうやめて」
かすかな声。
消え入りそうなほど、小さい。
だが確かに――そこに“意思”があった。
抗っている。
命令に。
縛られたはずの意志が、必死に抵抗している。
その証のように――
頭上の闇が、わずかに揺らぐ。
圧が、ほんの少しだけ緩む。
「……っ!」
その一瞬を、逃さない。
俺は歯を食いしばり――
刀を、地面へと突き立てた。
ギギ、と音を立てる。
それを支えに、身体を引き上げる。
震える。
腕が。
脚が。
全身が、限界を訴えている。
それでも――倒れるわけにはいかない。
「……まだ……終わってない……!」
立つ。
無理やり、立ち上がる。
重力に押し潰されながら。
一歩。
足を、前へ出す。
地面が砕ける。
骨が悲鳴を上げる。
それでも。
また、一歩。
ゆっくりと。
確実に。
ポチェティーノのもとへ。
「な、なにをしている46番!早くそこの死にぞこないを始末しないか!」
裏返った声が、部屋に響く。
ポチェティーノは焦りに顔を歪め、リュネスへと怒鳴りつけた。
だが――
リュネスはそれ以上、魔力を強めることはなかった。
闇は、ただそこに在るだけ。
圧は、わずかに揺らいだまま。
――抗っている。
その事実だけで、十分だった。
俺は、足を止めない。
潰れかけた身体を引きずりながら、なお前へ。
「……っく。この、失敗作が!」
ポチェティーノが吐き捨てる。
その言葉が、リュネスに向けられたものだと理解した瞬間――
胸の奥で、何かが静かに切れた。
そして。
ようやく――
その男の目の前へと辿り着く。
「ひぃいいい!!」
情けない悲鳴。
肥えた身体を震わせながら、ポチェティーノは短刀を構えた。
手は震え、腰は引けている。
それでも必死に、刃をこちらへ向けていた。
俺は――それを、見下ろす。
ただ静かに。
冷えきった視線で。
「このクズが」
声は、低く。
怒りすら通り越した、底のない冷たさを帯びていた。
「地獄に堕ちろ」
次の瞬間。
―閃。
一切の迷いもなく、刀を振り抜く。
空気を裂く音すら、遅れて聞こえた。
そして――
ポチェティーノの首が、宙を舞った。
時間が、一瞬だけ止まったかのように。
そのまま、鈍い音を立てて床へと転がる。
遅れて、胴体が崩れ落ちた。
血が、広がる。
部屋の空気が、静まり返る。
その瞬間だった。
張り詰めていた何かが、ぷつりと切れる。
全身から力が抜ける。
支えていた意志すら、崩れ落ちる。
――ようやく。終わった。
そう思った途端、俺の身体は糸の切れた人形のように、その場に倒れ込んだ。
意識が、暗闇へと沈んでいく。
閉じていく視界の端で――
リュネスが、こちらへ駆け寄ってくるのが見えた気がした。
次に目を覚ました時。
それは、どこか既視感のある光景だった。
目に映るのは――木の天井。
……マレヴェルの宿屋だ。
ぼんやりとした意識の中、聞き覚えのある声が響く。
「ようやくお目覚めかい。このまま寝たきりかと思ったよ」
マーラだった。
前と同じようで――だが、ひとつだけ違う。
俺は、ゆっくりと視線を落とす。
そこには。
リュネスがいた。
俺の腕を、ぎゅっと掴んだまま、傍で眠っている。
「よかったね。お嬢ちゃん」
マーラはそれだけ言うと、静かに部屋を後にした。
扉が閉まる音が、やけに優しく響く。
……まただ。
また、この子に救われた。
全身の痛みに顔を歪めながら、俺はゆっくりと上体を起こす。
そして。
そっと、声をかけた。
「リュネス……リュネス…」
肩を軽く揺する。
「ん……」
小さく、声が漏れる。
やがて、ゆっくりと瞼が開いた。
そして――
俺の顔を見た瞬間。
「よかった……生きてる」
その一言と同時に。
リュネスは、俺の首元に抱きついてきた。
「ああ……生きてる。お前のおかげだ」
そう言うと、リュネスは小さく首を振る。
「違う……助けてもらったのは、わたし」
少しだけ、間を置いて。
震える声で、問いかけてくる。
「なんで?……なんでそこまでしてくれたの?」
――答えに詰まる。
リュネスは俺の命の恩人だ。
だが、リュネスが納得する答えは見つからない気がした。
言葉にできないまま、俺は話題を変えるように口を開いた。
「リュネス。奴隷の刻印は消えたか?」
「うん……」
リュネスは胸元に手をやり、静かに頷いた。
そこにあったはずの刻印は、もうない。
――自由だ。
「よかったな。これでお前は、どこへでも行ける」
そう言うと。
リュネスの表情が、わずかに曇った。
「でも……わたし、行くところなんてどこにもない」
「家族は?」
小さく首を横に振る。
「……そうか」
一瞬、言葉を探す。
「お前、苗字は?」
「わからない」
その答えに、胸が締め付けられる。
……なら。
「そういえば、まだ名乗ってなかったな」
俺は、ゆっくりと言った。
「俺は、ルロイ。ルロイ・ハーヴェスだ」
そして。
まっすぐに、リュネスを見る。
「お前がよければ――これからは、ハーヴェスを名乗れ」
「リュネス・ハーヴェスだ」
静かな部屋の中で、その言葉ははっきりと響いた。
「俺と一緒に来ないか?」
リュネスは、俯いた。
小さな肩が、かすかに震えている。
「ハーヴェス……?わたしが……?どういうこと?」
俺は、迷わず答えた。
「俺の家族になれ」
その言葉に。
リュネスの瞳が、大きく揺れる。
「わたし……家族ができるの?」
震える声。
信じられない、というような響き。
「ああ……俺は、お前の兄ってところだな」
その瞬間。
ぽろり、と。
大粒の涙がこぼれ落ちた。
「わたし……こんな子が家族で、いいの?」
深く刻み込まれた負い目。
それが、言葉の端々から伝わってくる。
俺は何も言わず。
ただ、そっとリュネスを抱きしめた。
包み込むように。
逃がさないように。
「これからは――家族として一緒に生きていこう」
その一言で。
堰が切れた。
「うああああああああん!!」
リュネスは、子供のように泣き叫んだ。
これまで押し込めてきたものが、すべて溢れ出すように。
涙が止まらない。
声が枯れるほどに。
俺は、ただ静かにその頭を撫でる。
「今まで……よく頑張ったな」
その言葉に、さらに強く抱きついてくる。
「ルロイ……ルロイ……!」
何度も。
何度も。
途切れそうになりながらも、必死に紡がれる声。
俺の名を呼ぶたびに、指先に込められる力が強くなる。
離すまいとするように。
失うまいとするように。
その小さな身体は、止まらず震えていた。
涙に濡れた頬を押しつけながら、リュネスは子供のように泣き続ける。
いや――子供なのだ、本来は。
俺は何も言わず、ただその背を撫で続けた。
ここにいると、伝えるように。
もう大丈夫だと、伝えるように。
窓の外では、穏やかな波の音が響いている。
あの海と、同じ音。
けれど――もう違う。
そこにあるのは、孤独ではない。
寄り添う温もり。
確かに触れられる、誰かの存在。
泣くことすら許されず、
ただ奴隷として生きることだけを強いられてきた少女。
奪われ続けてきた時間。
閉ざされていた心。
そのすべてが、今――
ようやくほどけていく。
闇に染められてきたリュネスにとって。
ようやく掴んだそれは、
壊れてしまいそうなほどに儚くて。
それでも、確かにそこにある。
消えることのない――光だった。




