このゲームのことを何も分かっちゃいない
だが、敵を倒したことなどどうでもよかった。純白で一切の汚れを知らないはずだった修道服はずたぼろに引き裂かれ、鮮血で赤黒く染まっている。彼女の柔肌にも痛々しい傷がつけられ、焦点の定まらない瞳はかろうじてドロシーを捉えようとしていた。
「しっかりして、エカトリーナ」
「ドロシー、サクヤ」
「大丈夫。敵はもういないわ。それよりも早く回復しないと。でも、私たちにそんな魔法は無いし」
うろたえるサクヤ。ドロシーもまた目を白黒させていたが、ふと天啓が舞い降りる。
「ナオルシン。エカトリーナは確かそんなマジカルポーションを持っていたはず」
体力を回復させるアイテムを口にするや、彼女の修道服をまさぐる。思った通り、ポケットの中に小瓶が入っていた。
口元に中身の液体を垂らすと、弱弱しい所作で舐めとる。体力ゲージは回復の兆しがあったものの、雀の涙だった。
「くそう、全然効果がないじゃない」
サクヤが地面を拳で叩く。実のところ、体力回復効果は間違いなく発揮された。だが、エカトリーナが受けたダメージは予想以上に深刻であり、治癒が追い付いていないのだ。
懸命にエカトリーナが回帰する策を模索する二人。そんな両名をバレットは遠巻きに眺めるだけだった。彼女に体力を回復させる術がないことが一つ。もう一つは経験則から分かってしまったのだ。これから訪れる残酷な結末に。
徐々に薄れていく意識の中、エカトリーナは必死に言葉を紡ぎだそうとしていた。彼女自身も悟ってしまっていたのだ。コカトリスから受けた傷はあまりにも大きい。自分で自分に「ヒーリング」を施すことができれば、延命だけはできるだろう。しかし、もはや声を出すことすらもままならなかった。
だからこそ、一言だけでも残しておかなければならない。形式ばった辞世の句を残せれば本望だったが、気取る必要はなかろう。
「あり、がとう」
か細い声でようやく伝えられた言葉。それでもう十分だった。幸せそうな笑みを浮かべ、ドロシーの手から力なく腕がすり落ちていった。
綾小路文には友達と言える友達がいなかった。彼女の母はいわゆる「教育ママ」であり、子供の通う学校の偏差値がそのまま己のステータスだと考える人種であった。
なので、文が有名私立中学の受験に失敗した時、激しく叱責されたのは当然ともいえた。あまりに理不尽な物言いに、今もなお母親のことは快く思ってはいない。
勉強一辺倒のために、成績だけは良かった。だから、先生からはよく褒められた。でも、良かった点といえばそのぐらいだった。代償にしてきたものはあまりにも大きかったのだ。周囲の友人と同じように遊ぼうとしても、それは許されぬ相談だった。また、なまじ勉強ができてしまったがために、周囲の人間のくだらない話でくだらなく笑うというのが馬鹿らしく思ってしまった。
それでは、これまで友人がいなかったかと言えばそうではない。一応、気兼ねなく話せる相手はいた。けれども、それは母親から選別された友人だった。彼女の色眼鏡に敵わない者と親しくしようものなら、ねちねちと小言を言われる。どうせ、一人で遊んでばかりいると内申点に響くとか、そんなくだらない理由なのだろう。分かってはいるものの、反抗する術は持てなかった。
不本意な友人と遊ぶくらいならと逃げ込んだ趣味が読書だった。教育ママを謳う母親が読書を諫める理由は無い。虚構の世界はつまらない現実よりもよほど魅力的だった。そこには抑圧なんてものはなく、登場人物たちは生き生きと活躍している。彼女が活字世界の魅力に取りつかれるのに時間は要らなかった。
世界のありとあらゆる本を読んでみたい。いつか、真帆や時雨に語った夢は嘘ではない。でも、それは彼女の本心ではなかった。
時間にすればほんの僅かだったろう。ドリームワールドという現実離れした世界だったとはいえ、ドロシー、サクヤと一緒に怪物退治に明け暮れた日々は充足感に溢れていた。それに、ほんの数日とはいえ、真帆や時雨たちとは心の底から一緒に談笑し合うことができたのだ。ああ、私は人に飢えていたのだ。乾いた彼女の心に潤いをくれた。
だからこそ、もしこの場で願いがかなえられるとしたら、願うことは一つだった。それも、もう叶うことはできなくなったのだが。だからこそ、本当はきちんと伝えたかったのだ。
「今まで一緒にいてくれてありがとう。これからも一緒にいてね」
血にまみれた美しき天使。彼女を絵画にしたなら、そんな題名が付けられただろう。それほどまでに「それ」は美麗だった。
ドロシーとサクヤは魂が抜け出たかのように、その場から動けずにいた。エカトリーナの頭上に表示されていたはずの体力ゲージは消滅してしまった。代わりに浮かび上がったのは無情なる宣告。
「うそでしょ。GAME OVERって」
ドロシーはエカトリーナの体を揺さぶる。けれども、彼女が反応を示すことはなかった。この期になり、初めてバレットは歩み寄って来た。険しい顔つきはじっと「それ」を捉えている。口は堅く結ばれたままだった。
ふと、隣から乾いた笑い声が響いてくる。動悸に高鳴る胸を押さえ、眼を血走らせているサクヤだった。
「ねえ、悪い冗談でしょ。ゲームオーバーって。どうせすぐに蘇るんでしょ。ならば、そんなに心配することないじゃない」
「サクヤちゃん」
錯乱する友人に、ドロシーはどう声をかけていいのか分からなかった。
代わりに響いたのはサクヤの頬が叩かれる音だった。あまりに一瞬の出来事だったので、平手打ちを受けたということすら認識できずにいた。
ようやく自分が叩かれたということが分かり、サクヤはバレットにつかみかかる。
「どういうつもりよ、あんた」
「このゲームのことを何も分かっちゃいない」
喧嘩を売ったつもりが、それ以上の声で叱責され、一瞬で怯んでしまう。
バレットはエカテリーナを一瞥したのち、畳みかけた。
「このゲームでゲームオーバーになったらどうなるか。それをこの場で私から説明することもできる。けれども、あなたたちには身をもって体験してもらいたい。酷なことを言っているのは分かっている。でも、これはあなたたちのためでもあるの」
「何を言っているのか全然分かんねえよ!」
ぶっきらぼうな口調で反論されると、バレットはサクヤを突き飛ばす。背を向ける彼女をドロシーが呼び止めた。
「すぐに分かることになるわ。私たちが参加しているこのゲーム。それがどれだけ残酷なシステムになっているか」
「それって、どういう」
彼女の質問は聞き届けられなかった。バレットは一飛びで人智を超えた高さまで跳びあがると、あっという間に姿を消してしまったのだ。
飛び去ってしまったバレットと、横たわるエカトリーナ。どうすることもできずに、ドロシーは立ち尽くすしかなかった。そんな彼女の肩をサクヤが叩く。
「今日はもう大人しくしていよう。帰ろうと言っても、勝手に帰ることもできないみたいだし」
「サクヤちゃん」
「大丈夫だって。明日になれば全部元通り。魔法少女なんだから、そうなっているでしょ」
無理に作った笑顔が痛々しかった。そうだ。明日になれば全部無かったことになる。魔法少女のお約束じゃないか。そんな荒唐無稽な理論に身をうずめなくては、あまりの理不尽さに対抗できそうになかった。
そして、現実は甘くないと思い知るのは翌日のことであった。




