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イケメン社長に声をかけられたので、ついていく事にしました。

如月莉緒が去った翌日のオフィスは、異様なほど静まり返っていた。

「……あれ、莉緒がいないと、サーバーのアクセス権限はどうなってんだ?」

鏡部長が眉をひそめ、苛立ち混じりにキーボードを叩いている。彼が今開こうとしているのは、昨日クライアントに送るはずだった修正版の進行表だ。だが、そのファイルは『管理者権限がありません』と冷たく表示される。

そう。私の端末と紐付いていた共有フォルダは、私が退職手続きとともにアクセス権を剥奪していたのだ。

「澤田、お前昨日のプレゼン資料のバックアップ持ってるか?」

「え? いえ、私、いつも如月さんの保存した共有場所から開いてたから……」

美穂が青ざめた顔でPC画面を見つめる。

昨日までの完璧な進行状況は、すべて私のPC内部のローカルデータか、私だけが管理していた複雑なマクロ設定で動いていた。彼らにとっては『当たり前にそこにあるはずだったもの』が、私の退職と同時に魔法のように消えてしまったのだ。

「おい、ふざけるな。如月に電話しろ。今すぐデータを送らせろ」

鏡部長が怒鳴る。美穂は震える手でスマートフォンを取り出し、何度もコールするが、当然、繋がらない。私はすでに番号を変え、着信拒否の設定を済ませていたからだ。

「……部長、クライアントの『サンライト』から電話です。先方が『昨日まで話していた詳細なスケジュールと、コスト管理のシートがどこにも見当たらない。どうなっているんだ』と……」

別の社員が引きつった顔で報告する。

それだ。彼らは知らない。クライアントが求めていた細かい根拠資料、リスク管理表、そして明日までに提出すべき進行予定――そのすべてを、私が毎晩、誰にも知られず夜中までかけて作成し、美穂の資料に埋め込んでいたことを。

「美穂、お前……これ、どうやって作ったんだ?」

「わ、私……!」

美穂の口から出るはずのない言葉を求められ、会議室はパニックに陥る。

昨日まで私を「脳無し」「地味な雑用」と蔑んでいた彼らは、その『雑用』がいかにして会社という巨大な機械を潤滑に回していたか、その答えを知らないまま、ただ泥沼へ沈んでいく。

私は、新宿の片隅にある、看板も出ていないような小さなバーのカウンターに座っていた。

グラスの中で氷が寂しい音を立てる。

頬を伝う液体が酒なのか、涙なのか、自分でも判別がつかなかった。

「……全部、やってあげたのに」

声が震える。

誰にも見られない場所で、私はボロボロと泣いていた。

三十歳目前で、キャリアも、居場所も、プライドも、すべて失った。自分が何のために生きてきたのか、わからなくなる。

「ひどい扱いだったね」

不意に、隣の席から低く、けれど温かみのある声が聞こえた。

振り返ると、そこには完璧なスーツを纏った男が座っていた。どこかで見覚えのある、鋭いが優しい瞳。

「……誰ですか」

「失礼。隣で飲んでいた者だ。君がずっと泣いているから、気になってしまってね」

私は酔いと悲しみの勢いもあって、彼にすべてを話してしまった。

どれだけ頑張ったか。どれだけ否定されたか。どれだけ、会社のために身を削っていたか。

彼に聞いてもらうことで、自分の存在価値を確かめたかったのかもしれない。

「そうか。君は、誰よりも誠実に働いていたんだね」

男は私の話に一度も否定せず、ただ静かに聞いてくれた。

グラスを空にするたびに、彼は新しいお酒を頼んでくれた。

泣き疲れて、頭がぼんやりしてきた頃、男は懐から名刺を取り出し、カウンター越しにそっと滑らせた。

「……私の名前は、一ノ瀬蓮。君がいた会社の競合、『イノベーション・広告』の代表をしている」

イノベーション・広告。業界最大手の一社だ。

私は息を飲んだ。

「君の仕事ぶりは、他社にいても噂で聞いていたよ。あの会社がこれほど長くクライアントを繋ぎ止めていたのは、君という優秀な影の司令塔がいたからだ」

彼は微笑んだ。

「仕事に困ったら、一度うちに来てくれないか。君の本当の価値を、正当に評価する準備はできている」

一ノ瀬蓮。

その名を聞いた途端、霧が晴れるような思いだった。

私は手の中の名刺を握りしめる。

翌日の朝。

二日酔いの重い頭を抱えながら、私は一ノ瀬氏から受け取った名刺を見つめた。

そこには、あのブラックな社内では決して見ることのできなかった、プロフェッショナルな『招待状』が記されている。

私はスマートフォンの画面を開く。

指先が震える。

だが、その震えは、もう恐怖からではない。

「……見返してやる」

私は採用応募のボタンに指をかけ、静かに、しかし確かな意志を込めて連絡を入れた。


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