ミスを押し付けられたので、会社をクビになりました。
午前八時四十分。オフィスに入ると同時に、私はトースターのように冷え切ったデスクに向かう。PCを立ち上げるより先に、私は給湯室へ向かった。
「如月、カフェオレ。砂糖二つ。あと、会議室のエアコンが効きすぎてるから、設定温度を上げておいて」
振り返りもせず、部長の鏡が背中越しに命じる。彼は私のPCのデスクトップアイコンの並び順にすら文句を言う男だ。
「はい」と短く返し、私はコーヒー豆を挽く。豆の銘柄、抽出温度、スリーブの向き。彼らの好みを完璧にトレースすることだけが、私の今の唯一の存在意義だ。
デスクに戻ると、昨晩の残業でやりかけたデータ処理が待っている。だが、それはすぐに中断された。
「ねえ、如月さん。このプリンタ、紙詰まりしてるんだけど」
声をかけてきたのは、同期の澤田美穂だ。彼女は私のデスクの横に立ち、まるでゴミでも見るような目でプリンタを指差した。
「直しておいて。私、これから社外の打ち合わせだから」
「……トナーの交換時期かもしれないから、私が確認して直しておく。でも、美穂も少しは自分で……」
「はぁ? 如月さんって、本当に要領悪いよね」
美穂が溜息をつき、私の机を指先でトントンと叩く。
「そういう細々とした作業は、アンタみたいな『脳無し』がやるのが一番適材適所でしょ? クリエイティブな仕事に頭を使いたい私の時間を奪わないでよ」
『脳無し』。
オフィス中に聞こえる声で、彼女はそう言い放った。周囲の同僚たちが、クスクスと笑う。私は何も言わず、プリンタへと向かった。
粉末状の黒いトナーが指先に付着し、爪の間に黒く沈み込む。何度洗っても落ちない汚れが、私の精神を少しずつ削っていく。
午前十一時。私のPCには、美穂が「昨夜」作ったはずの企画書の修正依頼が山のように届いている。
開いてみると、絶句するしかない。
グラフの軸は不揃い、参照先のエクセルはリンク切れで全て「#REF!」という無機質なエラー表示。文章は誤字だらけで、クライアントの社名すら間違っている。
(これを……明日、大手のクライアントに持っていく気なの?)
私が修正しなければ、間違いなく契約は切られる。
私はため息を殺し、マウスを握り直す。本来なら彼女が自分でやるべき調査、修正、レイアウト調整。それを、私はまるで機械のように、一つひとつ丁寧に直していく。
時間は容赦なく過ぎる。
お昼休み。オフィスから人が消え、電子レンジの音が鳴り響く。私はデスクでコンビニのサンドイッチを齧りながら、美穂のミスを修正し続けた。
肩が凝り固まり、眼球が熱を持つ。
部長の鏡が、「如月、この資料のフォントが気に入らない。全部直せ」と、昼休みが終わる直前に、また別の不要な指示を投げてくる。
私の昼休みは、今日もない。
午後六時。定時を過ぎても、誰も帰らない。
キラキラとした広告代理店という看板とは裏腹に、私の席の周囲には、誰もが見て見ぬ振りをする「名もなき仕事」が積み上がる。
美穂はもういない。彼女は退社した。
鏡部長も、得意先との会食へ向かった。
オフィスには、私と、私と同じく「雑用」を押し付けられた数名のスタッフだけが残っている。
「……また、これか」
美穂がクライアントへのメール送信をミスし、先方からお叱りの電話があったという。
火消しをするのは私の仕事だ。
丁寧な謝罪文を考え、状況を説明する資料を急遽作成し、先方の担当者が納得するまでチャットでやり取りをする。
夜中の十時。
オフィスには無機質な蛍光灯の光だけが満ちている。
誰からも感謝されない。
私の苦労も、美穂の無能さも、部長の横暴さも、この部屋の空気の中に溶けて消えていく。
私はただ、誰かの代わりに椅子を温め、誰かの汚したデータを掃除し、誰かの代わりに頭を下げるために存在している。
午前二時。ようやく全てのタスクが終わった。
私はデスクの引き出しを片付け、帰宅の準備をする。
美穂がデスクの上に置き忘れた、飲みかけのペットボトル。部長が雑に投げ捨てた新聞紙。
私はそれらをゴミ箱へ入れる。
ああ、私はなんて惨めなのだろう。
翌朝。
私が夜中に必死で火消しをしたはずの、あのメール。
部長の鏡が、会議室で叫び声を上げた。
「如月! 貴様、何という報告書をクライアントに送ったんだ!!」
会議室には、美穂と部長、そしてクライアントの担当者がいた。
テーブルの上に叩きつけられたのは、私が夜中に作成した、完璧であるはずの謝罪資料だ。
「この資料はなんだ! 勝手な判断で、謝罪の表現を変えやがって!!」
「え……? ですが、先方の意向を汲んで、一番角が立たないように……」
「黙れ! お前ごときがクライアントの意図を理解できるわけがないだろうが! 美穂に恥をかかせて、どうするつもりだ!」
美穂が、泣きそうな顔で部長の背中に隠れる。
「部長……如月さんが、私の指示を無視して勝手に資料を書き換えたんです……。私、あんなこと言っていないのに……」
嘘だ。
私が書き換えたのは、美穂が誤送信して炎上したあとの、最低限の修復措置だ。指示なんて、最初から一言もなかった。
「如月、お前は本当に『脳無し』だな。言われたことすらまともにできないのか」
部長が私を指差す。
その指先が、怒りで震えている。
クライアントの担当者は、冷ややかな目で見ている。
「君の代わりならいくらでもいるんだよ、如月。このプロジェクトから外れろ。いや、もうこの会社に君の居場所はない」
「……そんな」
「荷物をまとめて出て行け。二度と私の視界に入るな」
部長がIDカードを掴み取り、床に投げ捨てる。
プラスチックの破片が、乾いた音を立てて転がった。
誰も私をかばわない。
美穂が、部長の影で小さく笑ったのが見えた。
私の努力は、誰にも届いていなかった。
私の誠意は、すべて汚泥の中に消えた。
私は膝から崩れ落ちた。
自分の指先が、まだトナーの汚れで黒ずんでいるのを見て、惨めさが喉の奥から込み上げてくる。
あふれ出る涙を止める方法を、私は知らなかった。




