第91話安らぎという名の地獄
ハンは俺を引き上げ、立ち上がらせてくれた。
「カイ、そんな顔すんなよ」
ハンは俺の背中を叩いて、不器用ながらも彼なりの励ましをする。
「ゼルヴァインがわざわざやって来てくれたんだ。俺達が勝つか負けるか分からねえ、裁判に挑む必要はなくなった」
「さっさと終わらせようぜ、カイ」
あの日、俺が初めて監獄に入れられた日。
最初にこう話し掛けてくれたのは、ハンだった。
「だな」
俺はハンの前を立つ。
「他のみんなは?」
「俺が幻覚から気付いた時には、誰もいなかった」
俺は辺りを見渡した。
青い松明の火が揺れるたび、廊下の奥に続く影が生き物のように蠢いて見える。
床には薄く水が張っていて、足を動かすたびに小さな波紋が広がった。
「ハン、ゼルヴァインのスキルは幻覚を見せるものだ。注意しながら進むぞ」
「ああ」
俺は聴覚を変化させるが、何も聞こえない。
何かがおかしい……そう思った俺は壁を強く叩く。
「音がしない、幻帝が対策の為に何か仕掛けやがった」
「だったらどうするんだ」
「まだ方法はある」
俺は目を閉じ、嗅覚を変化させる。
湿った石の臭い。
燃え続ける油の臭い。
そして――微かに混ざる、鉄のような血の臭い。
「……こっちだ」
俺が歩き出そうとした瞬間、ハンが俺の肩を掴んだ。
「待て」
「なんだ」
ハンは前方を睨んでいた。
「カイ、お前……今、普通に前に進もうとしたよな?」
「何言って――」
言いかけて、俺は気付いた。
俺の足は、いつの間にか"壁"に向かっていた。
あと一歩踏み出していたら、そのまま壁に頭から突っ込んでいた。
背筋が冷たくなる。
「……幻覚か」
「いや、それだけじゃねぇ」
ハンの額から汗が流れる。
「この城、俺達の認識そのものを狂わせてやがる」
その瞬間――
青い松明が、一斉に消えた。
暗闇の中、どこからかゼルヴァインの声が響く。
「素晴らしいな」
「友情、信頼、絆……人はそういうものに価値を見出す」
「だからこそ――壊し甲斐がある」
次の瞬間、ハンの表情が凍り付いた。
「……母さん?」
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「チクショウ……あんな趣味悪いもん見せやがって……」
ニコは返り血にまみれながら、足を掴んできた刺客の男を蹴って解いた。
カイもいねぇし……みんなの気配も感じない。
迷路のような廊下を進んでいると、目の前の角から一人の男が歩いてきた。
アイツ……!!
軽装に見えるが、特殊な加工をされていて、刃物を通さない装備を着ている。
手の平から生成したコインで手遊びをしていて、ニコを見た瞬間、指で弾いてコインを飛ばした。
コインは壁同士を跳ね返り、ニコの足元に摩擦の煙を立てながらめり込んだ。
「よお、ニコ」
男は満面の笑みでそう言った。
「また会えたな」
「ベンジャミン……!」
ニコは思い出す。
何も見えない暗闇で突如襲われ、腹を切り裂かれた事を。
完治したはずなのに、ニコは痛みで腹を抑えていた。
恐怖で脚が震え、呼吸が荒くなる。
やがて、ベンジャミンはニコの目の前まで近づいていた。
「ニコ、俺はお前を殺すつもりはない」
「なん……だって?」
ベンジャミンは両手を上げて、ニコに背中を見せた。
「ここにいるのは、俺みたいな壊れた奴らばっかだ。そこにいるルゼとかいうヤツもそうだ」
ニコは札を操り、ベンジャミンを札で囲んだ。
そんなニコを感じてベンジャミンは、冷静に説明する。
「アルダ、静の事は安心しろ。まだ死んでない」
「幻帝――ゼルヴァインは、カイを殺す為、今向かっている最中だ」
ニコは少し警戒を解いて、ベンジャミンを囲んでいた札を、バックへとしまった。
淡々とベンジャミンは説明しながら、ニコの後ろへ、両手を上げながら移動し、札で斬られて気を失っているルゼの首に、背中に付けていた投げナイフで掻き切った。
「お、お前……何がしたいんだよ!見え見えな演技なんだよ!」
ベンジャミンの異常な行動に、ニコは恐怖を感じて札でベンジャミンの両手を拘束し、首に札を当て、ベンジャミンの首から小さく流血する。
「一つ、ゼルヴァインのスキルの弱点を教えてやろう。それは周囲に出す胞子による幻覚だ」
「俺はカイのスキルである貪食で、その胞子を常時食い潰している。おかげで、スキルは使えない」
「お前が言ってるその情報、それが事実だって証拠はないだろ」
ベンジャミンは笑いながら答える。
「確かにそうだな。でもな、俺は気付いた」
「お前とカイの関係性……俺はそれを手に入れる事が出来る。愛し、愛され、支え続けられる存在」
ニコはベンジャミンの言葉を遮って言った。
「カイからお前の事は聞いてる……。どうせ、自分が狙ってる獲物をゼルヴァインに取られたくないんだろ」
「分かってくれるなら話が早い。カイをゼルヴァインから助けたいなら付いてこい」
「待てよ」
ニコはベンジャミンの肩を掴み、壁に叩きつけた。
「まず先に、アルダと静を助けろ」
「それは断る」
「条件だ!その二人を助けたら、カイを殺してもいい」
「恋人のお前のことだ。俺がカイと対峙したら止めるつもりなんだろ?」
「ふざけんな。カイを利用しようってのが気に食わねぇ」
「それに当たり前だろ。でも、確実にカイを殺せるチャンスをあげてやるんだ」
ベンジャミンはニコの必死の表情を見て、鼻で笑った。
「そうだな。俺は善人だ。人助けをしてやる」
ニコはベンジャミンから離れて、札で脅しながら黙って道を進むベンジャミンに着いて行く。
「嘘だったらすぐに殺してやるからな」
「フンッ、襲ってきた男を殺せもしなかったのにか?」
ニコはルゼの死体を飛び越える。
「お前とコイツじゃ、扱いが違う」
ベンジャミンは眉を上げて、軽々と答えた。
「今から助けに向かうのはアルダだ」
「早く進め!」
ニコは札を操り、ベンジャミンの首に当てる。
ベンジャミンに対して妙な気分を感じながらも、ニコは黙って着いて行っていた。
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ハンは目の前にいる母に目を奪われていた。
村でもない、ただ離れた場所に建てられた家。
森に囲まれ、母と二人の暮らしだったが、何不自由もなかった。
母が笑い、勉学で間違った箇所を修正する。
学校には行かなかったが、それでもハンは楽しかった。
しかしある日、母と自分は帝の手下である警備隊に捕えられた。
それは、母が西の地では見ない東洋人だったからだ。
この当時差別が多く、母は遊ばれた際に殺され、まだ若い自分は奴隷として働ける為、配属が見つかるまで監獄に入れられていた。
そんな亡き母を見てしまったハンは、戦闘どころか戦意自体を無くしていた。
「ハン!目ぇ覚ませ!お前まで取られてんじゃねぇぞ!」
魂が抜けたように立っているハンの顔を殴り、ハンはゆっくり瞬きをして俺を見つめた。
「か、母さん……」
俺はハンを置いて、ゼルヴァインに接近する。
短剣を生成し、ゼルヴァインに向けて振り下ろす―――
振り下ろした刃の先にいたのは、ゼルヴァインじゃない。
放心したまま立つハンだった。
刃はハンの頭を通り過ぎ、壁に刺さっていた。
「!?」
「貪食……私の幻を、もう防ぎ掛けているとはな」
「しかし、意味はない。人はいつだって安らぎを求めるのだから」
俺はゼルヴァインを見つめ、そこにいると狙いを定める。
ゆっくりゆっくり、一歩を踏み出し、ゼルヴァインに近づく。
「ゼル……ヴァイン!!」
気が付けば、俺は浜辺の近くのとある懐かしい家の中にいた。
窓から入る潮風は、滑らかなカーテンを揺らし、俺の頬をくすぐる。
「ねっ、カイ、なにボーッと突っ立ってんの?」
心配そうだが、こっちをからかってくるその言葉遣い。
青い宝石のようなその瞳は、明らかに"彼女"であった。




