第89話雪の中の記憶
埃が被った木の箱に座り続けて数十分。
調子が整ってきた俺は、箱から立ち上がり、ニコを置いていった場所まで戻る。
宿屋の広間がすぐ見える角を曲がろうとした時、タイミングよくハンが角から現れた。
ハンは弱々しい猫のような表情をしながら、話し掛けようとしてくる。
「怒鳴ってごめん」
俺はハンより先に頭を下げて謝った。
時間を置いたおかげで怒りが静まったのだろう。
「……それ、俺が謝りずれぇじゃねぇかよ」
ハンは間を置いて言う。
「俺こそ、調子乗ってお前とニコを二人にさせてしまった」
「すまない」
「まあ……今回は予測出来ない状況だったから仕方がない。それに、俺がもっと強ければ、それで済んだ話だ」
ハンは俺の肩に手を置き、落ち着いたのかハッと息を吐く。
「ニコはもう平気だ。逆にお前を心配してるほどにな」
「行ってやれ」
俺は角を曲がり、宿の広間へ出る。
飲みかけの酒が置かれてある机の横にあるベンチにニコそして隣にアルダが座っていた。
「カイ」
腹にはニコの札が貼られていて、少しだけ血が滲んでいる。
周りの人達も落ち着いたのか、皆自分の部屋や飲み場所に戻って普通にしていた。
「ハン、いつこの町から出れるんだ?」
「猛吹雪は明日まで続く。それから、一週間は降らない」
明後日にはもう出発出来る。
だが、深傷を負っているニコを歩かせるには―――
「予定を変更しよう。明々後日、その日に出発しよう」
「わかった」
ハンは俺の前を通り過ぎて行き、自分の部屋へと戻って行った。
俺はニコに近づき、そのまま隣に座る。
「なあカイ」
「どうした」
ニコの目は怯えていなかった。
俺を見るその目には、ただ答えを求める色だけがあった。
「カイを狙っているあの男、一体何者なんだ?」
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猛吹雪の中、店の裏道に身を潜め、警備隊から隠れている。
「ダメだ!こんな猛吹雪の中で捜索は不可能に近い!止んでから続けよう!」
そんな声が遠くから聞こえ、馬の足音と共にベルの音は消え去って行った。
ベンジャミンは聴覚を変化させ、耳を澄ませる。
自分が殺した人を見た人への聞き取り調査や、物騒だなんのと団らんで言っている声。
先週の脱獄との関係性など、様々な声が四方八方から聞こえてくる。
そんな中、一人の男の怒号が響く。
「カイ……!!」
ベンジャミンは顔から血を垂らしたまま、声が聞こえる方向へと、裏道から出ようとした。
「待て」
突如背後から男の声が聞こえ、ベンジャミンは後ろにいる男に向けて投げナイフを放った。
男は投げナイフを力強く受け止め、持ち手を掴んだが手の平からは血が流れていた。
「ゼルヴァイン……」
「ベンジャミン、外はしばらく雪が降る。ここは一度立て直すべきだ」
「立て直す?俺はカイを殺し損ねた。使えない俺を殺すべきなんじゃないのか」
ゼルヴァインは受け止めたナイフをベンジャミンへ投げ渡した。
ベンジャミンはしっかりと受け止め、それを離さず持ち続ける。
「そうすべきだろうな。しかし、運命というのは分からない」
「今はまだ、お前を殺すなと“運命”が囁いている」
ベンジャミンはその言葉に嫌気が差す。
自分はまた、気紛れで生かされる。
ゼルヴァインは後ろを向いて、目の前にある空間に手をかざす。
その瞬間、空間が歪み、鏡のように至る所を反射して無数の背景が映し出された。
気が付けば、ゼルヴァインが生み出したその空間は、彼が所有している城内へと繋がっていた。
「ベンジャミンよ、行くぞ」
ベンジャミンは自分の肩に雪が積もっているのを感じた。
そして、顔や口から流れていたはずの血は、冷たさで凍ってしまっていた。
凍りつき、パリパリと乾いた絵の具を剥がすように指で触る。
赤い血が親指に付く。
リンゴ。
少女。
幼少期。
血。
死。
恋。
ベンジャミンは昔の頃を思い出していた。
彼には両親がいなかった。
赤子の時から教会で孤児として育てられ、将来は立派な神父になるはずだった。
彼が17歳の頃、一人の赤頭巾を被った少女と出会った。
その無垢な笑顔と太陽に照らされた姿は、女を知らない彼が、恋に落ちるのには美しすぎた。
そしてこの世に生まれてきて愛を知らなかった彼の胸を貫いたのは、愛情ではなかった。
誰かを手に入れたいという、歪んだ衝動だった。
少女は彼に心を奪われ、その町の好意の証であるリンゴを手渡した。
彼は少女を愛していた。だが、少女の命を奪った世界で唯一の一人の異性になりたいと思ってしまった。
少女の笑顔を見るたび、胸が苦しくなった。
守りたいはずだった。
なのに彼の指先は、いつしか壊したい衝動に震えていた。
青い宝石のような瞳に、彼は呪われてしまった。
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宿屋の店主が建物を守る魔道具を起動し、部屋の中は居心地良い空間となる。
アルダや静、ハンは自分達が借りた部屋へと戻って行き、周りにいた人達も同様、みんな眠りについていた。
宿の広間にいるニコは、俺の話を聞きながら腹の傷の痛みを和らげる為に酒を飲む。
「なんでそんなヤバい奴に目付けられてんの?」
「さあな、俺も聞きたい」
「とりあえず、ヤツはしばらく姿を現さないはずだ。この猛吹雪で死んでくれたら助かるんだけどな」
俺は立ち上がり、ニコが飲んでいた酒を持ち上げ一気に飲み干した。
「あー!」
「酒を飲み過ぎるな、明日に響くぞ」
「別にいいだろ?明日は雪が続いて外、出ないんだからさー」
「だとしてもだ。回復に専念してもらう」
アルダが去り際に渡したきた、アルダ達の部屋の鍵をポケットから取り出し、少しふらつくニコを立ち上がらせ、手を取って部屋へと向かう。
「ほんと、わざわざ治癒してくれてありがとな」
ニコは酒と腹の傷もあってか、体力を消耗して眠たそうな顔をしながら、優しくそう呟く。
「……間に合ってよかった」
「マジで命の恩人だよ」
軽口を叩いているつもりだろうが、恥ずかしいのか俺から顔が見えないように俯いている。
「いっそのことアイツが現れた瞬間、魔剣でぶっ刺しとけばよかったのかもな」
魔道具を起動させたせいなのか、部屋へと続く廊下の照明は薄暗い。
手を取って進んでいるうちに、アルダ達の部屋に辿り着いた。
部屋に入るとニコを気遣っているのか、酔い潰れたハンが床で寝ていてベッドが一つ空いていた。
「一緒に寝るか?」
ニコは俺の手を引いてベッドに腰掛ける。
俺はその手を優しく手解き、傷が痛まないようにニコをゆっくり寝かせた。
「見張っとく。ヤツが狙ってくるかもしれねぇからな」
「寝なくて大丈夫?」
「もう慣れてる」
俺はそのままカーテンを閉め、部屋の灯りを消した。
そのままニコが寝ているベッドに腰掛け、ニコの目を見つめる。
「照れ臭いから見るなよ」
「だったら目瞑って寝とけ」
「はいはい」
そうして時計の針が鳴る音だけが響き、やがてすぐ隣から寝息が聞こえてきた。
俺は、ただその音を聞きながら、暗闇の中耳を澄ませ続けた。
猛吹雪が吹き荒れ、激しい風の音しかしない。
そんな音を聞いていると、段々と瞼が重くなっているのを感じた。




