第85話違和感
病院のナースステーションにて、クララはベンジャミンの記録を書いていた。
「クララちゃーん、初担当の患者のベンジャミンさんと良い感じじゃなあい?」
年老いた看護師がクララの肩を叩きながら横の椅子に座る。
「そ、そんなことないですよ!」
「えー?本当に?だってベンジャミンさんと話す時、いつもニコニコしてるじゃない」
「そ、それは………」
「そうだ!今日、ベンジャミンさんの清拭譲ってあげよっか?あの人の体凄いわよー!」
「ほら、照れてないでさー!」
「べ、別にそんなんじゃ……」
クララは視線を落とし、ペンを動かす手を少しだけ速めた。
記録にはこう書かれている。
——歩行、問題なし。
——筋力、異常な回復傾向。
——精神状態、安定。
……本当に?
自分で書いたその一文に、違和感が残る。
あの人は、確かに穏やかだ。
笑うし、会話も普通にできる。
けれど——
「ねえクララちゃん、行くなら今よ?ちょうど起きてる時間だし」
「……はい、行ってきます」
立ち上がる。
廊下に出た瞬間、空気が少し冷たく感じた。
足音がやけに響く。
地下から移動したベンジャミンの病室の前に立ち、ノックをしようとした、その時——
中から、微かな音が聞こえた。
……カラン。
金属が転がる音が微かに聞こえてくる。
コイン……?
クララは小さく息を吸い、ドアをノックする。
「失礼します、クララです」
返事はない。
ゆっくりとドアを開ける。
――部屋の中は静かだった。
ベンジャミンはベッドに腰掛けている。
その指の上で、金貨が弾かれていた。
カラン、カラン、と規則的な音。
「……ああ、クララ」
顔を上げる。
いつも通りの、柔らかい笑顔。
「どうした?」
「その……清拭に来ました」
「そうか」
ベンジャミンは立ち上がる。
その動きは、妙に滑らかだった。
リハビリ直後とは思えないほど、無駄がない。
クララは一瞬だけ、言葉に詰まる。
「……失礼します」
背中に手をかける。
背中は傷だらけで、どんな死線を潜り抜けてきたか、想像もつかない。
皮膚は硬く、まるで革のような感触。
この人……
その瞬間。
ベンジャミンの手が、クララの手首を軽く掴んだ。
「――ッ」
力は強くない。
だが、逃げられないと直感する圧があった。
「クララ」
至近距離で、目が合う。
笑っている。
なのに、目だけが——
何も映していない。
「甘い物はないか?質素な物ばかりで……」
「す、すみません。患者さんにはそういうのはダメって決まりがあって」
「そうか、なら大丈夫だ」
「あっ、でもリンゴならいいですよ」
「それじゃあお願いするよ」
「はい。拭き終わりましたらお持ちしますね」
しばらくしてクララはベンジャミンの体を拭き終わり、クララはリンゴを持っていき、ベンジャミンの目の前で果物ナイフで皮を剥く。
ベンジャミンはただ、そのリンゴを見つめる。
何変哲もないそのリンゴを、本当にただ見つめていた。
リンゴ。
少女。
幼少期。
血。
死。
恋。
その単語が、ベンジャミンの頭を埋め尽くした。
「剥き終わりましたよ」
綺麗にカットされたリンゴを見て、ベンジャミンはふと意識が戻った。
「どうかされました?」
「……昔の事を考えてた」
「昔の事?気になります!」
「聞いていて楽しい話じゃない」
「そ、そんなんですね。ごめんなさい、無神経で……」
「いいや、俺が退院する時。その時、話すよ」
クララは皿に置いたリンゴを一つずつベンジャミンの口元に運んで行き、ベンジャミンはリンゴをよく味わって食べる。
「ほんと、よく美味しそうに食べますねー」
「食べるのは好きだ」
ベンジャミンは笑顔を浮かべ、クララもその様子を見て自然と笑顔になった。
「……均等だな」
「え?」
「厚みも、切り口も」
クララは一瞬キョトンとした後、照れたように笑った。
「そ、そんなところ見てたんですか?」
「本当に食べやすい。いい仕事だ」
「では、私はこれで。失礼しました」
「ああ」
クララはベンジャミンの病室から離れ、ベンジャミンは地下では見れなかった外の景色を眺める。
時間はお昼。
ベンジャミンはリハビリとして、筋力トレーニングの次に魔道具でのランニングをしていた。
重い足音が響き、機械の数字は限界に達している。
ベンジャミンは聴覚を変化させ、足音に気が付く。
「ベンジャミンさん、入りますよー」
医師が部屋に入ると、ベンジャミンはすかさず魔道具の強度を下げ、軽いランニングへと速度を変えた。
「おっ、調子いいですねー」
ベンジャミンは魔道具から降り、汗をタオルで拭きながら医師に挨拶をした。
「こんにちわ。今の調子だと、いつ戦闘できるようになれますかね?」
「せ、戦闘ですか?そ、それは……退院まであと一週間と予定を変更したので、それまでには」
「そうですか、わかりました」
ベンジャミンは笑顔を返し、医師は戸惑いながらその場を後にした。
あと一週間か……
ベンジャミンは魔道具を起動し、再び走り出す。
ベンジャミンは速度を上げる。
もう一段階、負荷を上げても問題ない。
——いや、まだ早い。
壊すのは、もっと価値のあるものに使うべきだ。
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朝日の温かい光が、カーテンの隙間から漏れ、目に当たる。
「……ッ」
目が覚め、俺は宿のベッドから起き上がる。
狭いな。
ふと左を向くと、そこにはニコが眠っていた。
昨日の夜から記憶がない。
少し冷や汗を流しながら、俺はベッドの隣にある棚の上に置いてあった置き手紙が目に入る。
「マジか……」
そこにはハンやアルダが支払えなかった酒の料金が書かれてある。
するとベッドの軋む音で、ニコがゆっくりと目を覚ました。
「……ん、朝か?」
「ああ」
短く返すと、ニコは目を擦りながら上半身を起こす。乱れた髪をかき上げて、周囲を見回した。
「……なんか、頭いてぇな」
「俺もだ」
「飲みすぎたか?」
「いや、お前は飲みすぎてた」
「お前もな」
軽く笑う。そのやり取りが、妙に普通で——
だからこそ、少しだけ引っかかる。
昨日の夜。
途中から、記憶が曖昧だ。
どこで何を話して、どうやってここまで来たのか。
思い出そうとすると、霧がかかったみたいにぼやける。
「……どうした?」
「いや、なんでもない」
俺は視線を外し、棚の上の紙をもう一度見る。
改めて見ると、笑えない。
「ハンとアルダ……絶対逃げたな」
「間違いねぇな」
ニコは肩をすくめながら立ち上がる。
「まあいい。後で合流したらぶん殴る」
「それで済めばいいけどな」
軽口を交わしながら、俺は立ち上がる。
昨日あれだけ飲んだはずなのに、酔いは完全に抜けている。
それどころか——妙に、冴えている。
ニコの動き。
呼吸のリズム。
足音の重さ。
意識しなくても、全部がやけに鮮明に入ってくる。
……なんだこれ。
「カイ?」
「……ああ」
気付けば、じっとニコを見ていたらしい。
俺は小さく首を振り、その感覚を振り払う。
考えすぎだ。
「とりあえず行くか。ハン達探さねぇと」
「だな。ついでにこの借金もどうにかしねぇとだしな」
ニコは紙をヒラヒラさせながら苦笑した。
俺達は宿を出て、朝の冷たい空気の中へと足を踏み出す。
雪は止んでいたが、地面にはまだ白が残っている。
街は静かで、昨夜の騒ぎが嘘みたいだった。
しばらく歩くと、見慣れた背中が目に入る。
「……遅ぇよ」
振り返ったハンが、呆れたように言った。
その隣にはアルダと静がいる。
「お前らな……」
俺は手に持っていた紙を軽く振る。
ハンは一瞬だけ視線を逸らした。
「いや、ほら……緊急回避ってやつだ」
「ただの踏み倒しだろ」
アルダが笑いながら割って入る。
「まあまあ、それよりさ。話あったでしょ?」
空気が、少しだけ締まる。
ニコが表情を変えた。
「ああ。王国の件だ」
「ここから数十キロ。準備ができ次第、すぐ動く」
ハンが続ける。
「連中、本気でカイを“神様扱い”してるらしいぜ」
「……やめてくれ」
思わず呟く。
そんな柄じゃない。
だが——
「利用できるなら、利用する」
ハンははっきりと言った。
「名無しの帝を引きずり下ろすには、それくらい必要だ」
否定は、できなかった。
俺は小さく息を吐く。
「……いつ出る」
「今日中にでも動ける」
「準備はこっちで済ませとくよ」
「んじゃ、俺達は宿でゆっくりしとくから、準備が出来たら言ってくれ」
「ああ」
そうしてニコを連れてハン達と別れた。
胸騒ぎが止まらない。
理由は分からない。
だが——
確実に何かが近づいている。
それも、“敵”なんて生易しいものじゃない。
もっと別の何かだ。
俺は無意識に、右手を強く握る。
骨の軋む感覚は、もうなかった。
代わりに——
妙に、しっくりくる。
「……来る」
誰に言うでもなく、そう呟いた。




