9. エミルナ・ヴァルシェイン
「・・・本当にごめんなさい、ゴンゴン。私、パニックになっちゃって・・・」
ジャブジャブ、とバケツの中で温かい泡が弾ける音が響く。
洗面台で、私は洗剤を溶かしたぬるま湯にゴンゴンを浸し、優しく揉み洗いをしていた。
手元で泡にまみれた雪男のぬいぐるみは、お風呂にでも浸かっているかのように脱力している。
「ふん、まあいいさ。お前のあの悲惨な泣き顔に免じて許してやる。・・・だがなレイチェル、俺は高級ポリエステル製のプレミアムぬいぐるみなんだ。雑巾扱いだけは二度と勘弁してくれ」
「うぐっ・・・もう絶対にしないよ・・・」
私はしょんぼりと肩を落としながら、ゴンゴンの頭を丁寧に指先で洗った。
冷たい水で泡を洗い流し、絞ったタオルで包み込んで水分を拭き取っていく。
「・・・ねえ、ゴンゴン」
「なんだ?」
「魔法科の近くにさ、美味しいパフェを出す喫茶店があったじゃない? 助け出したら、ユミちゃんとルミちゃんと、みんなでそこに行きたいな」
「・・・ああ。イチゴが山盛り乗ったやつだな。お前、いつもそればかり頼んでたろ」
「うん。・・・それでね、みんなで前世の話なんかじゃなくて、来週のテストのこととか、新しく始まるアニメの話とか・・・そういう、どうでもいい話で笑い合いたいんだ」
私は意識して、核心から逸れるような他愛もない会話を続けた。
そうでもしていないと、胸の奥で渦巻く「恐怖」と、助け出さなきゃいけない「焦り」につぶされてしまいそうだったから。
さっきの戦闘で感じた死の恐怖、足元を濡らした情けない感触が、まだ肌にまとわりついている気がした。
ゴンゴンは私の手の中でじっと私を見つめていたが、呆れたような、けれどどこか心配するような深い溜息をついた。
「レイチェル。誤魔化すな。お前がいくら意地を張ったって、さっきみたいに土壇場で身体が竦んじまったら元も子もないんだぞ」
「う・・・」
「操縦の知識や敵の動きが分かっても、『戦い方』の呼吸だけは一朝一夕じゃ身につかない。・・・仕方ねえ。じゃあ、直接話してみるか」
「え・・・? 誰と・・・!?」
私が首を傾げると、ゴンゴンは濡れたままの短い腕を私の胸元へと向けた。
「誰とって・・・お前の中の、エミルナとだ!」
「ええっ!?」
驚く間もなく、ゴンゴンのプラスチックの瞳がカッと眩しい琥珀色に発光した。
ドクンッ! と、胸の奥深く――心臓のさらに裏側あたりが強く跳ね上がる。
視界が急速に白く染まり、洗面台の水の音も、格納庫の空気感も、すべてが遠のいていった。
気がつくと、私は真っ白な空間に立っていた。
目の前には、見覚えのある・・・けれど、どこか見慣れない一人の少女が立っている。
モノトーンの魔法衣を着て、泥に汚れた短い髪を揺らしている少女。
10歳で命を落とした、私の前世――エミルナだ。
「・・・あなたが、エミルナ・・・?」
私が恐る恐る声をかけると、エミルナは腰に手を当て、フンッと鼻を鳴らして私を仁王立ちで見下ろしてきた。
・・・いや、見下ろすと言っても、彼女の背丈は13歳の私の胸あたりまでしかない。
「なによ、レイチェル。その情けない顔は! さっきの戦闘、中から見てたけど呆れちゃったわよ! 敵に囲まれておもらしして泣き叫ぶなんて、それでもあたしの妹なの!?」
「い・・・妹!?」
私は思わず目を丸くした。
ゴンゴンが
「お前が人のこと言えるのか?」
とか突っ込んで
「今言うな!」
ってエミルナにひっぱたかれている。
エミルナは『前世の自分』のはずだ。
なのに、この態度。
言葉遣いもどこか生意気で、年下のはずなのに妙に威張っている。
まるでお姉ちゃんにでもお説教されているような気分になってくる。
「ちょっと待ってよ! 前世の自分なんだから、私の方が後で生まれたのはそうだけど、妹ってわけじゃ・・・それに、今の私は13歳で、エミルナは10歳でしょ!? なんでそんな偉そうなのよ!」
私が言い返すと、エミルナは不満そうに口を尖らせ、胸を張った。
「そりゃそうよ! だってあたしはあんたの前世なんかじゃなくて――あんたのお姉ちゃんなんだから!」
「・・・はぁ!?」
「あたしはね、10歳で死んじゃったけど・・・ずっとあんたの中で生きてたの! あんたが生まれる前から、あんたが泣いたり笑ったりするのを一番近くで見てきたの! 妹の世話をするのがお姉ちゃんの役目でしょ? だからあたしがお姉ちゃんなの!」
むちゃくちゃだ、と感じる。
でも、不思議と嫌な感じはしなかった。
エミルナの言葉には、私を突き放すような冷たさは一切なくて、むしろ私を心配して怒ってくれている温かさがあった。
「・・・本当に、私の中にずっといたの?」
「当たり前じゃない。あんたが転んで膝をすりむいた時も、魔法科のニュースを見て不安になってた時も、ずっとあたしはここにいたわよ」
エミルナは少し表情を柔らかくすると、私に向かって一歩近づき、泥で汚れた小さな手を差し出してきた。
「あんたがその気なら・・・次からはあたしが力を貸してあげる。あたしはたった10年で死んじゃったけど、戦場での経験ならあんたよりもずっとあるんだからね! 剣の振り方も、間合いの取り方も、全部あたしが身体に教えてあげる!」
「エミルナ・・・」
「本当はあんたを戦わせたくなんかなかったんだけどね・・・だからレオンともゴンゴンとも、『絶対妹を守り抜いて』って約束までしたのに・・・。でも、あんたは自分で『魔法科の子たちを救う』って決めたんでしょ? だったら、お姉ちゃんに甘えなさいよ。二人で一緒なら、あの冷たい機械兵なんて怖くないわ!」
差し出された小さな手。
私は涙をぐっとこらえ、その手をぎゅっと握り返した。
「うん・・・! よろしくね、エミルナお姉ちゃん!」
ハッと目を開けると、そこは元の洗面台だった。
手には乾きかけたタオルと、すっかり綺麗になったゴンゴン。
「・・・ふぅ、繋ぎ直すのに骨が折れたぜ」
ゴンゴンがやれやれと首を振る。
「聞こえるか?」
脳裏に、直接エミルナの元気な声が響いた。
『バッチリよ! レイチェルの身体の感覚、あたしにもバカみたいに伝わってくるわ!』
「うん・・・!」
私は小さく頷く。
胸の中があったかい。
それは、『お姉ちゃん』が私にくれた勇気だった。
次の日も、私はめげることなく、騎士科の格納庫へ出向いた。
昨日のおもらしの件があるだけに、空気はまだどことなく重く、気まずい。
「ヴァルシェイン・・・体調は大丈夫か? 無理をしなくても、魔法科への潜入作戦は僕たちだけで――」
レオン先輩が優しく問いかけてきた。
けれど、今の私は昨日までの私とは違っていた。
「ううん、レオン先輩。私、行きます。真の隊長機に乗れるのが私しかいないなら、そうするべきだって思うんです」
私の瞳を見た瞬間、レオン先輩も、隊員の先輩たちも、思わず息を飲んだ。
つい昨日、恐怖で怯え、泣きじゃくっていた13歳の少女の面影は消えていた。
背筋はピンと伸び、その佇まいには、長年修羅場を潜り抜けてきた熟練の剣士のような、静かで圧倒的な『凛とした気配』が漂っていたのだ。
「・・・ヴァルシェイン? 君は、何か・・・」
「先輩の約束の相手って・・・お姉ちゃんだったんですね?・・・でも、私はもう大丈夫です。お姉ちゃんも、ここにいるんです!」
私は自分の胸のところに手を当てる。
レオン先輩は驚いていた。
他の隊員の人たちからは、まるで私が土壇場で覚醒し、才能を開花させたかのように見えただろう。
立ち振る舞いも、歩き方すらも、一瞬で隙のない洗練されたものへと変わっていたからだ。
私自身でさえ、信じられないぐらいだから。
(ふふん、みんな驚いてるわね! あたしの構えが完璧だからよ!)
胸の中でエミルナが得意げに笑う。
(エミルナ、あんまり調子に乗らないでよ。操縦するのは私なんだから)
(分かってるわよ! さあ行きましょう、レイチェル! あの白銀の機体で、あたしたちの力を見せてやるのよ!)
「はい!」
私は白銀の真の隊長機を見上げた。
内側から輝くその装甲に、私とエミルナ――二人の姿が重なって映っていた。
私の中に宿る、頼もしい『お姉ちゃん』の力とともに。
私たちは、囚われた少女たちを救うため、ついに決戦の地へ向かって歩み出したのだった。




