4. ゴンゴン
「ふぅ・・・今日は本当に散々な一日だったなぁ・・・」
自室のベッドに鞄を放り投げ、私の口からは深々としたため息が出てきていた。
授業中に突然襲ってきた謎の頭痛と保健室での出来事。
何より、あの学校中の女子の憧れであるレオン先輩が授業をサボって保健室にいたことや、最後に真顔で放たれた「ただの一人の男として」という謎のキザなセリフが脳裏をチラついて、今でも耳の付け根が熱い。
混乱した頭をリセットすべく、私はお風呂に入ることにした。
着替えを抱え、いつものように雪男のぬいぐるみ『ゴンゴン』を小脇に抱えて脱衣所へと向かう。
物心ついた頃からの習慣で、お風呂に入る間もゴンゴンを脱衣所のカゴの上に座らせておくのが、一番心の落ち着くスタイルなのだ。
脱衣所の鍵を閉め、鏡の前で制服のリボンを解く。
続いてブラウスのボタンに手をかけ、ひとつ目を外した――その時だった。
「おいレイチェル。もう中学生なんだから俺の前で服を脱ぐのはいい加減ヤメロ! 俺の前世は男だぞ」
「・・・え?」
低い、どこか少年の面影を残した男声が、狭い脱衣所に響き渡った。
私は思わず固まった。
部屋には自分しかいない。
声の出所は――小脇に抱えられた、つぶらなプラスチックの目を持つ白いモフモフ。
「え、あ、いま・・・喋った・・・?」
「喋ったよ! ていうか早く向こう向け! 毎回毎回、無防備に脱ぎ始めやがって! こっちは中身は年相応の健全な男子なんだよ!」
バタバタバタッ!
ゴンゴンの綿が詰まった短く丸い両腕が激しく動き、レイチェルの顔面を叩いてきた。ポス、ポス、と柔らかい手触りが鼻先をくすぐる。
「きゃっ!? 痛くはないけど、暴れないでよ!」
私は最初、仰天したけど、驚きは一瞬で消え去り、代わりに妙な納得感が胸を占めた。
(あ・・・そっか。ゴンゴンだもんね)
記憶の底にあるエミルナの過酷な体験の中で、ゴンゴンはただのぬいぐるみではなかった。
魔法少女であったエミルナの戦闘をナビゲートし、時に励まし、時に愚痴を聞いてくれた『妖精』のようなシステム存在。
だから動くのも、流暢に喋るのも、不思議と自然に受け入れられてしまった。
ただ――『男だ』ということに関しては、話が別だ。
(エミルナの記憶でも、ゴンゴンは最初から最後までこの『雪男のぬいぐるみ』の姿だったじゃん!『雪男だから男という設定』なだけで。)
前世の記憶の中でも、人間の男の子としてのゴンゴンの姿なんて一度も見たことがない。
雪男のぬいぐるみだから男という設定なのは100歩譲ってわかるとしても、あくまで自称『前世は男』という謎の設定があるだけの、モフモフのぬいぐるみだ。
「もう・・・驚かさないでよ! びっくりしたじゃない!」
「びっくりしたのは俺だ! 中学生にもなって男の前で着替えるなと言っている!」
「男って言ったって、設定だけで元からぬいぐるみじゃん! ほらっ、これなら見えないでしょ!」
私は半ばヤケクソになり、ゴンゴンをぎゅっと胸元に抱き上げた。
綿が詰まった丸い頭で自分の胸元を物理的に隠してしまう。
「ぐはっ!? コラ! 乳の上に座らせるな! 余計に刺激が強いだろ!!」
「何言ってるのよ変態! ぬいぐるみなんだから黙って胸を隠す壁になりなさーい!」
「壁扱いすんな! 押すな、埋もれる! 呼吸が・・・綿だけど窒息する!!」
ジタバタと暴れるゴンゴンを抱え直し、どうにかこうにか制服を脱ぎ捨てた私は、そのままゴンゴンを脱衣所のカゴの上にポンと放り投げた。
「ふんっ、カゴの上でおとなしく待ってて!」
「おい待てレイチェル、そのまま丸裸で浴場に・・・うわあああ見せるな目をつぶらせろーっ!」
バタン、と浴室のドアを閉めると、中からゴンゴンの叫び声が遮断された。
◇
「・・・はぁー、極楽、極楽・・・」
温かい湯船に肩まで浸かり、私はようやく落ち着いては深く息を吐き出した。
湯気が天井へと立ち上り、揺れる水面が足を優しく包み込む。
昼間のパニックやレオン先輩の顔、そして先ほどのゴンゴンの騒動で逆立っていた神経が、少しずつほぐれていく。
脱衣所のドア越しに聞こえていたゴンゴンの抗議の声も、いつの間にか止んでいた。
私は風ッと落ち着いてから、水面に浮かぶ自分の手を見つめた。
13歳の、すべすべとした少女の手。
そこには怪我の跡も、血の匂いもない。
けれど、目をつむればどうしても思い出してしまうのだ。
血と泥に塗れ、壊れたステッキを握りしめ、冷たい雨の中で絶望に身を投じた『エミルナ』の最期を。
「・・・ねえ、ゴンゴン」
私は湯船から少し顔を出し、浴室のドアに向かって静かに呼びかけた。
返事はない。
けれど、あの鋭いナビゲートシステムのことだ、ドア越しに耳を澄ませているのは分かっていた。
「エミルナの事・・・何か知ってるの?」
浴槽の縁に顎を乗せ、揺れるお湯を指先で突っつく。
「今日の授業ね・・・頭が割れそうに痛くなって、知らない女の子たちの悲鳴がたくさん聞こえてきたの。
みんな『助けて』って・・・『魔法科に行かなきゃよかった』って・・・」
静寂が浴室を包み込む。
シャワーヘッドから滴る水の音だけが、ポチャン、ポチャンと響いていた。
「あたしの中にいるエミルナの記憶も・・・本当にあたしの前世なのかな? 10歳で死んだ魔法少女なんて、この世界じゃ何の役にも立たないし・・・名前もヴァルシェインで同じなんて、まるで誰かに作られた物語みたいで気持ち悪いよ」
私は湯船の中で膝を抱え込み、小さく体を丸めた。
「ねえ、教えてよ。アレ、ホントにあたしなの・・・? 魔法科に行けば、消えた先輩たちのことや、エミルナの正体がわかるのかな・・・?」
問いかけは、湯気の中に消えていくようだった。
沈黙が長く、長く続いた。
『やっぱり、もう喋ってくれないのかな・・・』
わたしがあきらめかけてお湯から上がろうとした、その時。
カチャリ、と浴室のドアが数センチだけ開いた。
隙間からぬっと顔を出したのは、お風呂の熱気で少し毛並みがしんなりした、ゴンゴンだった。
つぶらなプラスチックの瞳が、湯気越しに私をまっすぐに見つめている。
『・・・魔法少女になるのだけは、絶対やめろ』
さ っきまでのコミカルな声とはまるで違う、低く、押し殺したような、切迫した声だった。
『魔法科にも行くな。レオンの奴が何を言おうが、周りがどう煽ろうがお前が何を思おうが関係ない。お前はただの普通科のレイチェル・ヴァルシェインとして、呑気にバカやって、普通に大人になれ』
「ゴンゴン・・・?」
『エミルナがどうとか、前世がどうとか・・・そんなもの、知る必要はない。お前がお前でいることが、あいつの・・・いや、何でもない』
ゴンゴンはそこまで一気に捲し立てると、ぷいっと顔を背けた。
『おい、のぼせるぞ。さっさと上がれ』
それだけ言い残すと、パタンとドアが閉まり、脱衣所へと戻っていってしまった。
「・・・なによそれ」
一人残された浴室で、私はお湯を掬ってはこぼした。
やめろと言われてすんなり受け入れられるんだったら、最初からこんなに悩んでいないよ・・・。
前に誘われて断った時だって、さんざん悩んだんだ。
ゴンゴンの真剣すぎる制止は、かえって「エミルナの記憶」と「魔法科」の裏に存在する決定的な闇を確信させるだけだった。
(絶対やめろ、か・・・)
頭の中に残る、少女たちの絶望の悲鳴。
そして、前世の残酷な記憶。
胸の奥に燻るモヤモヤは少しも晴れないまま、私は重い腰を上げて、湯船から立ち上がった。




