強く賢く
それから数年の時が流れた。
神聖暦1240年、ゴブリンの集落。
かつて白い産着に包まれていた赤子は、今や『グロッグ』という名を持つ、ゴブリン集落の欠かせない一員となっていた。
彼の肌は人間と同じ白さを保っていたが、その身のこなしは完全に森の捕食者のそれだった。腰にはなめした獣の毛皮と小瓶がついた鎖を巻き、泥と返り血に汚れながらも、その動きに迷いはなかった。
彼はもう、『異質な赤子』ではなかった。キルガの愛する息子として、そして次代を担う賢き子として、集落の誰もが家族と認めていた。
彼は他のゴブリンの子たちと、森を遊び場として駆け回った。彼らの遊びは、石を投げ合う力試しや、枝を使った模擬戦闘、そして獲物を追いかける狩りの真似事だ。
グロッグは、その人間由来の機敏さと、ゴブリン社会で鍛えられた驚異的な身体能力によって、独自の成長をした。
ゴブリンのような牙はないが、その分よく対象を見て、隙や弱点を図る。
鋭い爪は持たないが、手先を器用に使う。
他のゴブリンたちも、彼を『肌は白いが、心は完全なゴブリンの一人』として扱った。
彼らの中で、グロッグの異質な外見は、もはや誰も気にする要素ではなかった。
グロッグが集落で抜きん出ていたのは、魔力でも牙の鋭さでもなく、その『知恵』と『学習能力』だった。
彼の知識の源は、母アンナから託された魔法の言葉装置と彼自身の努力である。
幼少期に、この装置が発する正確な人の言葉の基礎を遊びながら習得し、繰り返し、飽くことなく吸収した。
また、森で倒した冒険者が持っていた人の本を好奇心から拾い集めた。グロッグは、ゴブリンの言葉を習得するのと同じように、その本を独学で読み解き、人間社会の道具や戦術などを理解していった。
その結果、グロッグはゴブリンの言葉はもちろん、流暢な人の言葉も話せるという、集落で唯一無二の存在となった。
そして、その知恵を惜しみなく集落に還元し始めた。
彼は他のゴブリンの子たちを集め、地面に枝で文字を書きながら教える。その教え方は、聖都の厳格な家庭教師にも劣らないだろう。
「いいか、『火』は『ファイア』だ。ワレラの火も、人の火も、同じ『ファイア』だ。人の言葉は強く、正確だ。これを覚えておくと、いつか役に立つぞ」
小さなゴブリンたちは、緑の首を傾げながら、彼が描く不思議な図形を熱心に模写する。グロッグは、冒険者の死体から回収した本や、隠し持っている魔法装置から得た『人間の戦術』や『弱点』をゴブリンの言葉に翻訳し、遊びの中に組み込んで教えていった。
彼が教えたのは単語だけではない。彼は人間についての情報をゴブリンの言葉に翻訳して教え込んだ。
大人のゴブリンですら、彼の言葉に耳を傾けるようになっていた。
グロッグは魔力を持たぬ身でありながら、その知恵と戦術眼、そして鍛え抜かれた身体能力をゴブリン社会で培った。彼は、集落の大人たちからも一目置かれる『若き才能』として、強く賢く育っていった。
キルガの住処である洞穴の隅。焚き火が炭火に変わり、集落が眠りについた頃。
グロッグは静かに腰巻の隠しポケットから、年季の入った『箱』を取り出す。
母アンナが残した魔法装置。今では角が削れ、鈍い輝きを放つその箱を、彼は宝物のように指先でなぞる。
指先で装置の小さな突起を押し込むと……
『ジジッ……』
微かな魔力の駆動音。装置が僅かに震え、柔らかい光を放った。
装置から流れてくるのは、森の耳障りな風の音とは正反対の、透き通った女性の『温かい声』。
『あ・い・う……。さあ、一緒に言ってみて?』
グロッグは、ゴブリン特有の喉を鳴らすような発声を抑え、装置の声に、その『音の色』を完璧に重ねようと試みる。
「……あ、い、う……」
それは、ゴブリンの叫び声とは全く違う、滑らかで繊細な響きだった。
彼はこの声を聴く時だけ、胸の奥が締め付けられるような、不思議な感覚に陥る。この声の主が誰なのか、自分に何を伝えたかったのか、彼は知らない。だが、この『音』こそが、自分の根底にある『何か』を繋ぎ止めていることだけは本能で理解していた。
『上手ね。次は……ママ、よ』
「マ……マ……」
グロッグはその単語を呟き、ふと背後で眠るキルガを見返した。この装置が教える『ママ』という響きには、今の生活には存在しない、甘く、胸が締め付けられるような響きがある。
グロッグは、拾った本の端に、装置から聞こえた音を文字として書き写していく。
『私は、あなたを、愛しています』
意味は、本を読んで理解した。だが、なぜこの装置の主が、自分にこの言葉を遺したのか、その理由だけは、どれほど知恵を絞っても解けぬ謎だった。
「愛、して、います……」
暗闇の中で、グロッグの白い肌が焚き火の名残に照らされる。その横顔は、もはや森の魔物でも人でもなく、どちらにもなりきれない存在だった
グロッグは、背中に感じるキルガの『土と草の匂い』と、耳元で響くアンナの『冷たくも優しい声』……
そのどちらにも、完全に触れることはできなかった。




