聖への道
一方、森にカイが捨てられた、その日の夜明け前。
聖都サンディアのアルテミス家の私室には、リリアンと母アンナだけが残されていた。
リリアンは、弟が得られなかった未来とは対照的な、絶対的な光を身にまとい、アンナの腕の中で安らかに眠っていた。彼女の周囲には、すでに神聖魔力の微細な光が、ごく自然なものとして漂っている。
アンナは、リリアンの小さく繊細な体と、高潔な血筋を示す整った顔立ちを見つめた。その表情には、極度の疲労と、喜びと罪悪感が混在する、複雑な感情が浮かんでいる。
リリアンは、豊満な母の胸を小さな手で優しく掴みながら、安堵と愛情に満ちた母乳を静かに吸っていた。リリアンにとって、この時間は『この世界から完全に受け入れられている』という、絶対的な安心感そのものだった。
……優しいが、どこか冷たい命の味がした。
アンナは、リリアンのあまりにも幸福そうな顔を見て、心の奥底で泣いた。『この子だけは、絶対に幸せにしなければならない』という思いで、彼女はリリアンを抱きしめる腕に無意識で力を込めた。
その静寂を破り、部屋の扉がノックされ、父シグルドに手配された司祭の男が姿を現した。
「大司教様」
司祭は、任務を完遂したことを報告するため、冷徹な表情でシグルドの執務室から私室へとやって来た。
「……指示通り、あの忌まわしい赤子は、二度と戻れぬ森の奥深くに、確かに置いて参りました。獣の餌となるか、寒さで消えるか。聖都の秩序を脅かすことは、もうありません」
その報告を聞いたアンナの体が、びくりと震えた。彼女は、我が子が本当に『消された』『存在しないことにされた』という事実に、口から声も出せないほどのショックを受けた。
しかし、父シグルドの反応は、アンナとは対照的だった。
報告を聞いたシグルドの表情は、一切の感情を映さなかった。そして、ただ冷たく司祭に命じた。
「よし。処置は完了だ。速やかに戻れ。そして、この件は永遠に口外するな。さあ、行くぞ」
シグルドはそう冷たく言い放つと、リリアンとアンナが残された部屋を一瞥することもなく、『使命』に没頭するため、司祭と共に足早に仕事へと戻っていった。彼にとって、カイの追放は『家系の使命遂行のための、一つのタスク完了』でしかなかったのだ。
部屋に残されたアンナは、夫の冷徹さ、そして森に去った我が子の運命を思い、無言のまま涙を流した。
……その涙は、リリアンには決して聞こえることはなかった。リリアンを悲しませるまいと、聞かせないようにした。
光に満たされた聖都の静かな部屋で、リリアンは、自分が得た『光』の代償が、弟の『影』であることを知る由もなく、深く眠り続けた。
そして、朝日が聖都を、部屋を照らし始める。
朝の光が、刃物のようにアンナの肌を刺した。
カイが森へ追放されて以来、アルテミス家の私室には、リリアンの成長の光とは裏腹の、冷たい暗闇が常に漂うようになった。
食事はほとんど喉を通らなかった。夜になれば眠れず、朝になれば森の方角へ目を向ける。出産の疲労も重なり、アンナは何日も床から起き上がれなかった。周囲の者たちが心配しても、彼女の心は常に森の奥、『あの子』の行く末を案じていた。
アンナにとって、教会の儀式、貴族の応対、家の運営……それらは全て、自分の無力さと夫の非情さを突きつける苦痛だった。
しかし、唯一の例外があった。
それは、リリアンのお世話である。
リリアンを抱き、母乳を与え、その無邪気な寝顔を見つめる時だけは、アンナは束の間の安寧を得た。
……その腕の中に、もう一人分の重みがあった気がして、アンナは目を閉じた。
『この子だけは絶対に幸せにしなければならない』
それだけが、彼女を繋ぎ止めていた。リリアンが眠ると、アンナは何をするでもなく、その寝顔を何時間も見つめ続けていた。
アンナは、大切そうにリリアンをぎゅっと抱きしめる。
腕で眠るリリアンは少し苦しかったのか、眉をひそめて小さな手を虚空に伸ばす…
それは、何か大切なものを探すように見えた。
一方、父シグルドは、妻のその後の憔悴ぶりを当然知っていた。
だが、彼は大司教という立場にある。彼の使命は聖都の秩序であり、感情はそれを乱す雑音でしかなかった。
彼は、アンナの状況を『女の感情的な弱さ』、あるいは『使命を優先した決断に伴う、軽微な犠牲』と見なしていた。
「まだ引きずるのか……もう終わったことだ。この決断がなければ、家は終わっていた」
「貴族の体面を保つ程度には動け。見苦しい」
アンナは返事をしなかった。返す言葉も気力も、もう残っていなかった。
シグルドは、妻に直接的な指示は与えたが、その心を癒やすための特別な行動は一切起こさなかった。彼にとって、『あの処置』は正しく完了しており、妻が感情を引きずることは、公的な仕事に集中できない彼の障害でしかなかったからだ。
アルテミス家は、表面上、光の継承者であるリリアンの誕生に沸き立っていたが、その内側では、母の深い悲しみと父の冷徹な無関心が、静かに家を蝕んでいた。
部屋には光だけが満ちていた。
……その光は、何も照らしてはいなかった。




