ゴブリンの子
キルガは、冷え切っていたグロッグを毛皮でしっかりと包み込み、迷うことなく森の奥深く、ゴブリンたちの縄張りへと戻った。
ゴブリンの集落は、土と木の簡素な構造でできており、聖都サンディアの石造りの厳格な美しさとは対照的な、生命の臭いに満ちていた。
集落の中央には太い丸太が組まれ、絶えず燃え続ける大きな焚き火、その上には狩りから持ち帰られた獣の肉塊……
周囲には、動物の毛皮を加工するゴブリンたちが座り込み、集落の周囲には、すぐに手に取れるよう、木や石を削った武器が無造作に並べられている。
そして地面に敷き詰められた枯れ葉と土の匂いが混ざり合い、生きるための匂いが満ちていた。
キルガがグロッグを抱いているのを見て、集落はざわめいた。兵士の一人が、人間特有の匂いや、産着の人間らしい匂いを漂わせるグロッグを怪しみ、鋭い声を上げた。
「キーッ! ギッガー!(キルガ、それは何だ!)」
キルガは立ち止まり、その顔は戦士としての厳しさを保ちつつも、抱いた子への深い愛情に満ちていた。
「ギィヤァ……ガァ…(私の子供だ。新しい子だ)」
子を失ったキルガが、再び『私の子』と口にした。これを知る者たちにとって、その言葉は重い意味を持っていた。
「ガガッ! ギィ、ギィー!(裏切ったらどうする! 殺すべきだ、殺せー!)」
「グルッ、ガルルル……(なら私は出る。この子も連れて行く)」
兵士たちは戸惑いながらも、子どもの世話に異常な情熱を燃やすキルガの『意志』を否定することはできなかった。
集落のゴブリンたちは、誰もグロッグが仲間に入ることに賛成はしなかった。だが、誰もキルガを止められるとは思わなかった。こうして、その白い赤子は警戒されながらも、ゴブリンの集落で生きることを許された。
しかし、キルガには大きな問題があった。母乳である。
森での過酷な生活の中で、彼女の母乳は既に出なくなっていた。グロッグはすぐに空腹で泣き始め、キルガは途方に暮れた。
その時、集落の奥から、別の母ゴブリンが姿を現した。彼女は、乳飲み子を抱えている。キルガが連れていた子たちの母だ。子が母ゴブリンのもとへ戻っていく。
母ゴブリンはキルガを不思議そうに見た。キルガが抱えているのは、紛れもない人間の子だからだ。
だが、キルガは子育て経験も多く、集落でも腕の立つ戦士だ。そのことを誰もが知っていた。そのキルガが抱えて、育てようとしているのだから、彼女は何も言わなかった。子ゴブリンたちも興味津々に覗き込み、怖がる様子はなかった。
キルガが、人間の子をゴブリンの子と同じようにあやしているのを見た母ゴブリンは……一呼吸ついて、動いた。
母ゴブリンはグロッグをキルガから受け取った。そして、その硬い胸を、優しくグロッグの口元に近づけた。
グロッグの白い小さな体は、隣にいるゴブリンの子たちとあまりにも異なっていた。
ゴブリンの赤子が持つ鋭い歯も爪も、グロッグにはない。ただ柔らかな手と、何も噛み砕けない口だけがあった。
それでも、グロッグは生命の本能に従った。彼は、新しい命の源を探し求め、小さな頭を懸命に母ゴブリンの胸にこすりつけ、そして、ついにその乳首を咥えた。
ちゅぷ、ちゅぷ、と、その場に満ちた獣臭さや焚き火の音を打ち消すような、小さな吸う音が響き渡る。グロッグはただひたすらに、生を繋ぐための栄養を貪った。
彼の小さな手が、感謝とも本能ともつかぬ力で、母ゴブリンの硬い胸を優しく掴んだ。
人の子が母ゴブリンの胸に抱かれ、乳の匂いと人の匂いが、そして焚き火の煙と土の匂いがゆっくりと混ざり、溶け込んでいく……
母ゴブリンは、ただ自分の子と同じように、その異質な白い赤子を静かに胸へ抱き寄せ続けた。
その光景に、キルガは気づかぬうちに涙をこぼしていた。
それが何の涙なのか、自分でも分からなかった。
……無力な人間の母親から託された言葉の装置に一度だけ目を落とし、そっと懐にしまい込む。他のゴブリンの目に触れぬように。
白い産着には、もう土の匂いが染みついていた。
聖都は、もう遠く離れている。
人間の赤子として捨てられたその小さな命は、この日から森の子として、ゴブリンの子として生きていく。




