魔への道
シグルドに手配された一人の司祭が、聖都から遠く離れた森の奥深くに立っていた。彼はシグルドに仕えている司祭の一人であり、『上級司教の血筋を汚す、魔力を持たない忌み子』を処理するという非情な任務を冷静に遂行しようとしていた。
司祭は、持参した粗末な布の上にカイを置いた。カイは白い産着に包まれ、母アンナの涙の痕が残る魔法の言葉装置を胸元に抱いたまま、安らかに眠っていた。
…白い産着は、冷たい土に触れた途端、すぐに泥で汚れた。
司祭は儀式的なため息をつき、手を合わせた。
「…どうか、神のご意思が、この子の魂を導かんことを。そして、この子が二度と聖都に戻らないことを」
それは祈りではなく、脅威の完全な排除を願う、冷たい宣言であった。早口でそう告げると、森が静寂に包まれ、『闇深さ』や『獣の鳴き声』が鮮明に響き渡り、その威圧感に煽られた司祭は振り返ることなく、光のない森の奥へと足早に去っていった。彼の足音はすぐに消え、周囲にはただ、巨大な木々の葉擦れの音と、得体の知れない動物の鳴き声だけが残った。
カイはしばらく、母の腕の中にいる夢でも見ているかのように、静かに眠り続けていた。
しかし、夜が深まるにつれて、森の空気は容赦なく冷え込んでいく。周囲は暗闇に包まれ、聖都の暖かな石造りの建物とは全く違う、生きた森の冷たさが幼い体を浸食し始めた。
そして、ついに。
「ふぇっ、ふぇえっ……」
カイは、その冷たさに耐えきれず、小さな声で泣き出した。それは次第に、『恐怖』と『空腹』と『孤独』が入り混じった、小さな、しかし森の静寂を切り裂く悲痛な叫びへと変わっていった。
カイの泣き声が響き渡る中、ゴブリンたちの縄張りである森の深い場所から、一人の雌ゴブリンと、複数の子ゴブリンたちが音もなく姿を現した。
彼女……雌ゴブリンの名はキルガ。
キルガは、ゴブリンの子たちを引き連れながら森を探索している途中だった。戦士でありながら子どもの世話が得意だったため、集落でも他の母ゴブリンから世話を任されることが多かった。
草むらの陰から、彼女は白い布に包まれた、異質な存在を見た。それは彼女の知るゴブリンの子とは似ても似つかない、白く、か弱い赤子だった。
「ギィ……グルル…」
キルガは警戒の唸り声を上げながら不格好な木の武器を構え、ゆっくりと赤子に近づいた。子どもたちも、少し距離をとって様子を窺っている。
赤子の手には、不可解な装飾の施された箱が置かれていて、首には銀の鎖がかけられている。人間の匂いや足跡、折れた草といった痕跡はまだ残っていた。しかし、その姿はどこにもない。
ただ、この赤子が、人間の手によって意図的に捨てられたことは理解できた。
カイは、自分を見下ろす緑の肌と、鋭い牙を持つ顔ぶれ、向けられた武器を見て、さらに激しく泣き叫んだ。
その声は、恐怖に引き裂かれるように高く、途切れず、森の奥へと響いていく。
「ギィ……ッ、ギィ……!」
キルガは思わず顔をしかめ、困惑したように低く唸った。
どうすればいいのか分からない。ただ、目の前の小さな命が壊れてしまいそうだということだけは理解できた。
彼女は不器用に、しかし必死に声をかける。
「ギィ……ヤァ……(泣き止め)」
短く、鋭く。それは命令に近い声音だった。
だが当然、赤子は応じない。
むしろ、理解できない異形の存在に対する恐怖で、さらに声を強めた。
「ふぇえぇっ……あぁああっ……!」
……その時。
カイの胸元に抱かれていた小さな箱が、かすかに震えた。
次の瞬間、静寂を切り裂くように、柔らかな声が流れ出す。
『……大丈夫よ。ここにいるわ』
キルガは反射的に後退した。子どもたちも、キルガの後ろに隠れる。
本能が『危険だ』と警告する。人間の道具は、時に牙や爪よりも恐ろしい。
だが……
『こわくないわ。あなたは一人じゃない』
それは、森には存在しないはずの音だった。
温かく、穏やかで、どこか懐かしい響き。
カイの泣き声が、ぴたりと止まった。
「……ふぇ……」
小さな嗚咽を残して、彼は静かにその声に耳を傾ける。
やがて、まぶたがゆっくりと閉じられていった。
キルガは動きを止めたまま、その光景を見つめていた。
代わりに、小さく息を吸う音がする。
まるで、その声を確かめるように。
『よしよし……いい子ね……』
優しい子守歌が、静かに流れ始めた。
森の冷たい空気の中で、その声だけが不自然なほどに温かく、場違いなほどに穏やかだった。
キルガは、その場から一歩も動けなかった。
それは彼女の知るどんな鳴き声とも違う、どんな言葉とも違うものだった。
その言葉は理解できない。それでも、その声が赤子を安心させていることだけは、本能で分かった。
目の前の赤子は、すでに誰かに守られている。
それでもなお、ここに捨てられたのだと。
カイは、もう泣いていなかった。
その小さな体は、ただ声に身を委ねるように、静かに呼吸している。
キルガの中で、何かが決定的に変わった。
敵でも、獲物でもない。
これは……子だ。
キルガは、警戒心を捨てた。
彼女は武器を下ろし、ゆっくりとカイに手を伸ばす。
鋭い指先を優しくカイの頬に触れさせ、人間には理解できないゴブリンの言葉で、優しく、しかし力強く語りかけた。
「ギィヤァ……ガァ…(大丈夫よ。もう泣かないで、愛しい子)」
そして、彼女は小さなカイの体を、その薄い体からは想像もできないほどの温かい力で抱き上げた。その瞬間、彼女の中で何かが満たされた。失われたはずの『母』としての役割が、再び自分に与えられたのだと。
キルガに抱きしめられた途端、優しい『草の匂い』や『土の温かさ』を感じる気がした。
キルガは、人間によって見捨てられ冷え切った白い赤子を、自分の肌と体温で温めた。彼女は赤子の顔を見つめ、小さく呟いた。
「……グロッグ」
彼女は、彼に新しいゴブリンの名を与え、その小さな体を離さなかった。
人間に捨てられた赤子は、もうそこにはいない。
この日、人間のカイは死んだ。
そして、ゴブリンのグロッグが生まれた。




