40話 硬貨六枚の重さ
「暇だから来たけど、また暇になっちゃったね!」
ラメはえへへ、といたずらっぽく笑いながら、おもむろにリュエの背後に回り込んだ。そして、くんくんと彼女の首筋や髪の匂いを嗅ぎ始める。
かつて私が彼女たちの拠点に連れ込まれた初日にやられた、いつもの野生的なスキンシップだ。捕食者の習性を知っていれば心臓が止まりそうな光景だが、私にとってはもう日常茶飯事の、ごく普通の光景だった。
リュエはその行為に少し身を硬くしていたが、ラメが満足して落ち着くのをじっと待ってから、困ったように私を振り返った。
「あの……私、獣人の人とちゃんとお話しするの、初めてで……! 何をして遊ぶのが良いんだろう?」
リュエは助けを求めるように私を見つめる。
今はまだ太陽が高い、完全に明るい時間帯だ。この前、別のエリアを歩いていた時は痴話喧嘩の魔法の流れ弾による事故に巻き込まれたばかりだった。けれど、あれは人が密集しているスラムの深部だったからだ。ここから少し離れた場所なら問題はないだろう。
私は少し考えてから、一つの提案をした。
「ねえ、近くの山まで少し歩いてみない? リュエが時々やってるみたいに、果物やキノコ、山菜なんかを散歩がてら採りに行ってみるの」
私の提案に、リュエもラメも「行く!」と即座に乗ってくれた。
向かった先は、山と言っても人々が薪拾いなどでよく利用する、街道から少しだけ外れた程度の緩やかな斜面だ。これ以上山奥深くへ入ると危険な魔物が現れるが、このあたりならその心配もない。逆に、リュエ以外の多くの人に採り尽くされている可能性もあるが、ただの遊びならちょうどいいだろう。
「うーん、やっぱりこの前私がこの辺は採っちゃったから、あんまり残ってないみたい。でもね、あっちの木の根元にあるやつとかは、案外大体のものは食べられたりするんだよ」
リュエはスラムで生き抜くための知識を、誇らしげに色々と教えてくれた。
果物のように色鮮やかで、誰にでもわかりやすい食べ物は他の人に採られてしまうことが多く、一年に一、二回お目にかかれれば良い方だそうだ。そのため、基本的には見向きもされないような雑草や、隠れて生えているキノコ類を採るらしい。
クロやラメ、そして私がそんな野草を食べるかどうかは非常に微妙なところだが、ラメは思いのほかおしゃべりが上手だった。時にはリュエの話をじっと聞き、感心したように深く頷いたりしながら、驚くほどの速さで彼女との距離を縮めていく。
(なんていうか……まるで、クロが街の人間から情報を引き出す時の真似をしてるみたい)
私とラメ、あるいはクロとラメの会話は、作戦会議でもない限り必要最低限の言葉しか交わさないことが多い。普段から私にも、これくらい愛想よく接してほしいものだ……。
もしかしたら捕食者が平民に擬態するため、それをラメなりに実践しているのかもしれない。
そんなことを考えながら、楽しそうに笑うリュエの姿を見ていた、その時だった。
地面に落ちるリュエの影が、一瞬だけ、太陽の向きを完全に無視して真っ黒く、不自然に長く伸びたように見えた。
私は思わず激しく瞬きをする。しかし、次の瞬間には、影はどこにでもあるありふれた少女の形に戻っていた。
(気のせい……? 疲れているのかな……)
胸の内に生じた奇妙なざわつきを、私は脳裏からサクッと追い払った。
散歩を終え、特にこれといったトラブルも起きないまま、私たちはリュエの家へと帰宅した。本当に、ただの平和な散歩とおしゃべりでしかなかった。
家に入ると、そこには父親――『チチ』がすでに帰ってきて、椅子に腰掛けていた。今日の仕事は随分と早く片付いたらしい。
「おかえり。……あ、久しぶり、だね」
チチは私を見て小さく挨拶し、私の後ろにいるラメの姿を視界に捉えた瞬間、分かりやすくその身体を強張らせた。
初対面時にチチは悪いことをしようとしたとはいえ、ラメによって一方的に半殺しにされている。そのため、彼はラメの存在が骨の髄まで恐ろしいのだ。
チチの前の机には、その日の給料だろう、ざっと十枚前後の薄汚れた銅貨が並べられ、整理されていた。
それを見たラメが、興味津々といった様子で机に身を乗り出す。
「んー……??? これ……今日の収穫??」
「あ、ああ……そうだね」
怯えを隠せないチチが小さく頷くと、ラメは不思議そうに首を傾げ、ポケットからさっき落とした硬貨を取り出した。
「えーと、じゃあさ。これくらいのお金を稼ぐのって、どのくらい時間がかかるの?」
ラメが提示したのは、硬貨が六枚。金貨が二枚と銀貨が四枚だ。
それを見たチチは、さらに顔を引きつらせながら、ぽつりぽつりと答えた。
「それくらいなら……普通は一ヶ月くらいはかかると思う……。毎日仕事があるか分からないし、給料もその日によって変わるから、下手したら二ヶ月……かな」
「えっ!?」
ラメは、これ以上ないほど分かりやすく目を丸くして驚いていた。
その様子を、私は一歩引いた場所から静かに見つめていた。
スラムの住人が得る給料のあまりの少なさに、私は驚きを隠せなかった。表の街であれば、仕事にもよるが並の仕事でも日給でこの二倍から四倍は稼げるはずだ。表の平民の月給が金貨六枚から十枚だとしたら、目の前にある硬貨の価値とはあまりにもかけ離れている。住む世界が違うだけで、こうもお金の価値が変わるというのか……?
ギルドの手配犯の報酬だけでも、普通の人なら二年ちょっとは難なく暮らせるだけの大金が私たちの手元にはある。けれど、私はスラムの住人である彼らに、直接お金を渡して支援するという選択肢を今まで選べずにいた。
(一度与えてしまえば、自立を妨げ、一生与え続けなければならなくなる……)
クロから聞いた話だが、支援という行為が持つ恐ろしい依存のリスク。今まで現実味を持たずに後回しにしていたその課題を、私は今、ラメの無邪気な好奇心によって、いきなり目の前に突きつけられることになった。




