35話 崩れる日常と、落ちていた魔法書
その嫌な予感は、別の最悪の形で的中した。
一番環境が悪いスラムのエリアを抜けようと歩いていた時だ。
リュエと横並びで歩いていた私の真後ろから、鼓膜を鋭く突き刺すような巨大な衝突音と悲鳴が轟いた。
「えっ……!?」
振り返ると、リュエのすぐ背後にあった建造物の壁が吹き飛び、木材や石材の破片が雨のように散乱していた。
あとなんか見た事ない小動物が出てきた、毛のない尻尾を持っていて、握り拳ほどの灰色の毛をしている。
「チュッ……チィッ……」と、虫のような高い音を鳴らしながら、カサカサと素早い動きでゴミの奥へと消えていった。
そんなことよりももう一歩、いや数歩歩くのが遅れていたら、確実に私かリュエの頭上に直撃していただろう。
土煙の向こう側から、言い争うバカな女の声が聞こえてきた。
「浮気しただろ!!」と女が怒鳴り、その手元には魔法を唱えた跡の光のカスのようなものが消えかかっている。多分近くに男もいるのだろうが、声が聞こえないところを見ると気絶しているのだろうか?
完全に、痴話喧嘩の魔法の『流れ弾』だった。
少し角度がズレていたと考えただけでもゾッとする。怪我だけで済めばまだマシなレベルの破壊力だ。
ふつふつと怒りが湧き上がり、あの身勝手な女をどうしてやろうかと手足が少し動いたが、数秒だけ深呼吸をしてなんとか理性を保った。
今は私一人ではない。スラムの目撃者が多い場所で派手な魔法を使えば、確実に足がついて面倒なことになる。
リュエを見ると、完全に恐怖で固まり、不安げな表情で震えていた。
「リュエ、ちょっと失礼するね」
私は彼女を抱きかかえるようにして前に庇い、小走りでその場を後にした。
走りながら、頭の中で冷静なツッコミが止まらなかった。
(いや、あの女、魔法が使えるならなんでこんなスラムにいるのよ)
魔法は人間や獣人を問わず誰でも使えると言われているが、そのためには『勉強』という大前提が必要不可欠だ。属性は選べないにせよ、基礎を学ぶための魔法の本は馬鹿高い。逆に、どうでもいいような魔法が書かれていない本の方が、付ける値札が高いレベルだったりするのだ。あんなスラムの底辺でくすぶっているような人間が手を出せる代物ではないはずだった。いや、人口が何倍にも増えているらしいから、珍しくないのだろうか?
走りながら自問自答してしまった。
そこそこ離れた、少しマシなスラムの広場まで来て、ようやく私はリュエを降ろした。
「……ホント、危なかったね。もう大丈夫だよ。怖かった?」
「え……とぉ……。うん、怖かった」
リュエは不安そうな顔のまま、少しだけ作り笑いをして見せた。
私たちは広場の隅にしゃがみ込み、深く深呼吸をした。
私も、急な事態に少しだけ変な疲れを感じていた。
「ホントびっくりした……」
リュエが小さく呟きながら、ふと、近くの道端に落ちていたゴミ同然の古ぼけた本を適当に拾い上げ、パラパラとめくった。
たまたま開かれたそのページを見て、私は思わず目を細め、本を睨みつけた。
そこには、はっきりと『生贄』『悪魔』という不吉な単語が並んでいた。
リュエはなんとなくページを眺めて絵などを見ているだけで、文字が読めている様子はない。スラムの人間は、話すことはできても読み書きができない者が大半だ。
「ブラン、この本、なんて書いてあるの?」
リュエに無邪気に聞かれ、私は正直に答えるか誤魔化すか一瞬迷った。
「……『人間や魔法』について書いてあるみたいだね」
嘘ではない。が、完全に内容を濁して答えた。
(……ん? ちょっと待って)
私は心の奥で強烈な違和感を覚えた。
なぜ、馬鹿高いはずの魔法の本が、こんなスラムの道端にゴミのように落ちている?
しかも、よりによって『悪魔』や『生贄』なんていう、ろくでもない内容のものが。
表紙が読めない程汚れていたから、一見して魔法の本だとは思わなかった。
嫌な考えが頭をよぎったが、今はこれ以上リュエを不安にさせるべきではないと判断した。
それから十分ほど歩き、リュエの家に着いた。
「今日はなかなか大変だったね」と言い合いながら別れの挨拶をする。
時間だけ見ればお昼過ぎに家を出たので、夕方まではまだ半分以上時間があるぐらいだった。
「またね、元気でね」
私はリュエにそう告げると、得体の知れないモヤモヤを胸に抱えたまま、帰路についた。




