34話 スラムの散歩と、名前のない父親
私は時々、心配性な自分を持て余しながら、あのスラムの父娘の様子を一人で確認しに行っていた。
支援をするなら自分の家に招き入れるという選択肢もあるのだろうが、私にはそんな中途半端な決心はできなかった。何より、クロやラメとの生活空間はとてもじゃないが一般人に見せられる状態ではない。夜の吸血行為に始まり、得体の知れない武器や金の管理のされ方など、明らかに怪しい状態のあの家を教えるわけにはいかなかった。
時々、娘の方から「お姉ちゃんの家ってどんなところ?」と聞かれることもあったが、「あっちの方だよ。治安はここよりマシだけど、あんまり良くないかな」と、嘘にならない程度に誤魔化していた。
何度か通ううちに、彼女たちの名前を知る機会があった。
あの邪教や闇金の事件の時は、落ち着いて話すタイミングがまるでなかったのだ。
娘の名前は「リュエ」といった。今年で九歳になるらしい。
そして、父親の名前について尋ねた時、リュエは少し困ったように笑った。
「お父さんは、昔の事とか全然教えてくれないの。だから、ずっと『チチ』って呼んでるんだ」
自分の娘にすら過去や本名を明かさない父親。
スラムでは最悪なパターンとして、幼い頃に名付け親が亡くなり、自身の名前を認識する機会を失ったまま育つ者がいる。文字の読み書きもできないため、言葉で教わるはずだった『自分の名前』が存在しない人が一定数確認されているほどだ。だから珍しい話ではない。悲しい事だが、彼もまたその一人なのだろう。
ある時、なんとなく訪れた時のことだ。
適当に雑談をしているうちに、この巨大都市のスラムがどういう状態なのかという話題になり、リュエの案内で少し散歩をすることになった。
この都市に巨大なスラムが形成されている理由は、ギルドの資料や噂から大体察しがついていた。ここ三十年から五十年の間で、正確に観測しきれないほど人口が爆発的に増加したのだ。結果として金や食料が不足し、行き場を失った人々が土地に溢れ返った。一説によれば人口は三倍から五倍に膨れ上がったそうだが、正確な人数は誰も知らない。金の価値も3~5倍程度になったと聞く。
夜と違って、明るい時間のスラムは人のいる場所には割と密集している。逆に、いない所には全く人の気配すらなく、極端だった。
九歳のリュエにその歴史的背景を話してもピンとこないようだったので、私は彼女に「ここはどんな場所なの?」と教えてもらいながら、二十分ほど歩き回った。
歩いてみて気になったのは、建物の構造だ。
場所にもよるが、昔はしっかりした造りだったであろう、似たような構造の三階建ての家が何十年も誰かに使われ続けながら立ち並んでいる。
さらにスラムの中でも、場所によって生活環境に明確な格差があることがわかった。
リュエが住んでいる場所は、決して一番ではないが、まだマシな部類だった。ゴミはある程度の場所に適当に集められており、気づいた時には誰かが燃やしたのか、燃えカスしか残っていない。
しかし、一番環境が悪いエリアは違った。
綺麗な道などなく、地面は踏み固められたゴミだらけ。木材や石材の使い回しで、パズルのように無理やり組み立てられた家が密集している。風や雨が凌げるのかすら怪しい。
しかも、どうやって増設したのか、二階や三階部分が少しせり出しており、上の階へ移動するための階段すらない。窓のない窓枠から、外に立てかけられたハシゴで直接出入りしているようだった。
(……これ、人の体重を掛けて大丈夫な構造じゃないでしょ)
今にも崩れ落ちそうな建造物群を見上げながら、私は嫌な予感しかしていなかった。




