次の舞台
朝の校舎は、いつもの空気だった。
窓の桟に陽が乗っている。廊下の床に四角い光が落ち、生徒の声が遠くで重なり、足音が斜めに横切っていく。レンは肩から鞄を提げ、教科書の縁を肘で押さえながら歩いた。
すれ違いざま、二人組が囁く。
「あの言霊だろ」
「ランキング戦で優勝候補に勝ったやつ。遠征でも実績を上げてるって聞いたぞ」
会話はそこで切れた。視線だけが、すれ違ったあとも背中に残る。
——「ハズレ」とは、もう呼ばれない。
代わりに「変わり者」と呼ばれている。
レンは振り返らない。指先がノートの背に触れていた。表紙越しに、紙の厚みを軽く確かめる。ページの束は薄くなりつつあって、白い頁の残りは指の感覚だけで分かるくらいになっている。
昨夕、練武場の石床の冷たさが、指の関節の奥にまだ残っていた。
何も呟かない。教室の戸に手をかけて、軽く押し開ける。日常はいつも通りに続いていた。
◇
昼の食堂は湯気で煙っていた。
窓際の席で、シオンと向かい合う。彼女は箸を動かしながら、視線を皿の上に落としていた。レンは茶碗を置いた。
「次の学期は遠征を増やしたい。もっと実戦で名前を試したい」
シオンの箸が止まる。目線だけが、皿から上がった。
「……計画性があるとは思えないけど」
「あるんだよ」
即答してから、レンは鞄からノートを取り出して、開いた頁を彼女のほうへ向ける。技名の横にびっしりと走り書きがあった。
◇
中距離・草叢、対飛行・短距離、夜・低光量で命中率が落ちる——遠征で書き足した状況の覚書たちが、行と行のあいだに詰まっている。
シオンの視線がノートに落ちた。
指を一本伸ばして、書き込みのうちの一語を、軽くなぞる。読んでいる、というより、確かめている動作だった。視線が戻ってこない数秒のあいだ、レンは茶を一口だけ含む。
やがて、シオンは指を引いた。
「……まあ、悪くないんじゃない」
声のトーンは平坦で、感心も否定もしていない響きだった。腕を組み直して、椅子の背に体を預ける。
立ち去らない。
レンはそれだけで分かった。
「だろ」
それだけ返して、ノートを閉じる。シオンは何も言わず、また箸を持ち直して、自分の皿に戻っていった。
◇
午後、教師室。
机の上に、書類が一通だけ置かれていた。教師は背を伸ばして椅子に座り、レンが入ってくるのを軽く目で迎える。
「アシュフォード、次の学期——学院代表として、外の遠征に出る話がある。興味はあるか」
「興味、あります」
即答だった。レンは姿勢を変えなかった。
教師の目に、何かが浮かんで、すぐに引いた。沈黙が、いつもより伸びる。
「……分かった。詳細はまた追って」
書類を閉じる、無造作な手つき。レンは頭を下げて退室した。
廊下に出てから、ノートを開いて、ただひと言だけ書き加える。
——外遠征。学院代表。
その横に、まだ何も書かない余白を、広く残しておいた。
◇
夕方の自室、窓の外では陽が落ちかけていた。
机にノートが二冊置かれている。一冊目は、表紙を起こすまでもなく分かるほど、横線で埋め尽くされている。使い切った名前たちが、刃で切られた跡のように刻まれていた。
レンは指で背表紙を撫でて、引き出しを開ける。底にきちんと収める。
新しい二冊目を机の上に置いた。表紙は、まだ白い。
「——新しい敵には、新しい名前がいるだろ」
独り言だった。
二冊目の表紙を、指の腹でそっと撫でる。開かずに、そのまま机に置いた。
次回「ストックなら、ある ―シオン―」
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