聖黙の使者
下草の踏み方は、先刻までと同じ静けさを保っていた。意図だけが、魔獣のそれとは違う。
藪の向こうで葉擦れが止み、白い布地がゆっくり姿を見せる。法衣。袖がゆったりしている。襟の縫い目に細い刺繍。腰より下の丈が草に触れても、擦れる音は立たない。踏み方を知っている者の歩き方だった。
男は立ち止まった。こちらを驚かせないための距離を測ってから、丁寧に頭を下げる。年齢は読めない。穏やかな微笑みが、敵意の置き場を最初から封じていた。
「驚かせて申し訳ありません。教団の巡回者をしております。この森を、時折歩かせていただいている者です」
声音は、木漏れ日と同じくらいの柔らかさだった。
「魔獣の声がしたので、様子を見に。皆さんご無事のようで、よかった」
偶然を装った挨拶。レンは軽く頷きだけ返す。シオンは横で、少し離れて立っていた。表情を動かさない。
男の視線が、レンの胸元をかすめた。内ポケットに差したノートの角が、外套の合わせの間から覗いている。視線はすぐ戻った。ただし、戻る前に止まった。
男は森の奥の方向を気にするふうをしてから、ゆっくりと話し出した。
「古い時代の話を、少しだけさせてください。かつて、声で発動する魔術は、多くの人を傷つけました。名を叫ぶたびに世界の方が削られていく——そう考えられていた頃があったのです」
言葉は急いでいない。押しつけがましさもない。
「だから秩序のために、それを封じようと決めた人たちがいました。聖黙令と呼ばれています。乱暴に聞こえるかもしれませんが、あの時代の人たちは、誰かを罰するためではなく、誰かを守るために、そう選んだのです」
筋は通っていた。悪意はどこにもない。レンの頭のなかで、ノートの余白が、項目の形に整えられていく。——教団、聖黙令、古い時代、秩序。書き取るべき言葉が静かに並ぶ。
男は視線をレンに戻し、微笑みの温度を変えないまま続けた。
「あなたのような若い方が、古い力に囚われるのは、惜しいことだと思っています。才能に従った、正しい魔法を学び直しませんか。良い師を紹介できます」
柔らかい勧誘だった。レンは即答しなかった。
反論の形が、喉のあたりで止まる。相手は本気で善いことをしていると信じている。その確信のぶんだけ、言葉が滑っていかない。糸口を探した。見つからない。見つけた気がしても、見つけたそばから、男の語った内在の理屈が先に塞いでしまう。
シオンは、横で黙って立っている。
レンは、小さく笑った。怒りも皮肉も混ざらない、ただの平熱。
「ありがたいんですけど、言霊で困ってないんで」
男の口元は優しいままだった。だが、目の奥の色が、ごく浅いところで別のものに沈む。瞬きひとつぶんの影。見落としてもおかしくない程度の、ほんの僅かな変化だった。
「そうですか」
男はまた丁寧に頭を下げ、「では、良い遠征を」と短く添えて、森の奥へ静かに戻っていく。法衣の裾が下草に触れ、音を立てずに離れていった。
気配が木立の向こうに溶けた頃、シオンが、低く呟いた。
「……あの人、あなたのスキルを知ってた。鑑定もしていないのに」
木漏れ日が、さっきと同じ角度で差している。
次回「力と正しさ ―シオン―」
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