命名哲学の激突・後
白い余白の上を、指先が撫でていた。
二つの名前が、漢字の輪郭のまま並んでいる。どちらにも線は引かれていない。片方のほうで指が止まる。もう片方の輪郭は、目の端でぼやけたまま残す。
——この名前は、こいつのためにあった。
胸の中で、そう呟く。呟くのと同時に、迷いの残りが音もなく剥がれ落ちていく。
顔を上げた。砂の向こうでカイが剣を構え直している。前髪の奥の目が、こちらへ据えられていた。
レンは息を吸い込んだ。ゆっくり、深く、肺の底に砂と石の匂いを落とし込む。手帳を閉じ、内ポケットに戻す。右手をゆっくりと持ち上げ、掌を開き、指を広げた。
腰を落とす。左足を半歩引き、背骨を垂直に通した。構えが変わる。それだけで、空気の密度がこちらへ傾いでいくのがわかった。
◇
「——その剣に、届かせてやる」
声が腹から抜ける。
「喰らいやがれ———ッ!!」
一拍。音が遠のく。
観客席のざわめきが、闘技場の縁を回って引いていく。砂を踏む音も、旗が風に鳴る音も、薄い膜の向こうへ一斉に下がった。
右手を喉の高さまで引き、五指を揃えた。左手を右手首に添える。肩が落ち、背骨に一本の線が走る。息を止めた。
「『覇王炎殺滅龍波』ッ!!」
声が空気を、切った。
風が止まった。旗がその場で死んだように垂れ下がる。砂が地面から数センチ浮き上がり、空中で一瞬静止した。光がレンの喉の奥から立ち上り、右の五指の先で収束して、まっすぐ前へ抜けていく。
赤い。
白い。
抜けていく光の中心が、目を焼くほどに白い。
カイの肩が動いた。剣を正眼から垂直に立て、刃の腹をこちらへ向ける。前髪の奥で口が開く。
「『ディオグランツ』ッ!!」
剣身に沿って光が走った。刃の縁に銀色が乗り、剣全体が一瞬で鏡のように研ぎ澄まされる。カイの膝が沈み、切っ先が光の芯へ斜めに差し込まれる。
刃が、光を、受けた。
銀が赤白に噛み込まれて、きしむ音を立てた。カイの足が砂に線を引きながら後ろへ滑る。膝が砂に埋まる。剣の柄を両手で握り直す。前髪が後ろへ持っていかれ、初めて両目が剥き出しになった。
——が、止まらない。
光は、剣を押し、剣を握る男を押し、男の立っている砂ごと押していく。剣の届く弧の先、そのさらに向こうの空間ごと、光がまとめて持って行く。
レンの視界の中で、世界の一本の線が前へ流れていた。
距離ごと、叩く。
それが——魔法だ。
カイの姿が光に呑まれ、刃の銀が光の芯に吸い込まれ、砂が白い帯になって地面を走る。闘技場の奥、石の壁の手前で、光がようやくほどけた。
音が、戻ってきた。
◇
カイが倒れている。
砂の上で、剣が半ばねじれたまま、手から離れていた。胸が浅く上下している。意識はある——それだけ、確かめられた。
レンの膝が、砂に落ちた。
腕が重い。喉が、焼けたみたいに痛む。B級の時のような「膝にわずか」ではなかった。体の芯から、何か一本、太いものが抜けていった感触。
それでも、手は震えていなかった。
内ポケットから手帳を取り出す。革の角を指でなぞり、めくる。最終ページの、余白。
見ていた目の前で——細く、鋭い線が、紙の上を走った。
刃物が紙を切ったような、まっすぐな一本。レンの手は触れていない。手帳が勝手に引いた。そうなるものだと、最初から決まっていたように。
線の上の名前が、静かに過去になる。
「……いい名前だった」
小さく、低く、口から落ちた。後悔は、なかった。
もう片方の名前は、線の引かれないまま、白い余白の上に残った。漢字の輪郭だけ。輪郭以外のことは、何も考えなかった。
顔を上げる。
観客席の騒ぎが、やっと耳に戻ってくる。その奥——審判台の脇で、教師陣が固まっていた。誰も動いていない。口を開きかけた教師が、開いたまま言葉を失っている。
一番奥の一人が、隣の教師の耳元に顔を寄せた。声は届かない。ただ、唇の動きだけが見えた。
「……二人とも、言霊、か——」
もう一人が、小さく頷いた。羊皮紙を手元に引き寄せ、ペンに手を伸ばす。
レンはそれを、膝をついたまま、遠くに眺めていた。
次回「決着の後で」
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