準決勝
控え室の壁に背中を預けて、レンはノートを開いた。
最後のページに、昨夜書きつけたばかりの名前が一行だけ残っている。インクの太い線を指の腹でなぞると、紙の繊維に走ったペン先の跡が、まだ温度を持っているような気がした。B級が六、C級が三。指で数えるまでもない。足りない、と頭の隅で誰かが言うけれど、その声は不思議と遠い。
「全部使い切ったって、また作ればいい」
声に出してから、ノートをぱたんと閉じた。膝の関節が小さく軋む。立ち上がる動作のひとつひとつが、自分の身体だと確かめるための儀式だった。通路の先で審判の声が呼んでいる。レンは砂を踏んで歩き出した。
◇
円形の闘技場は砂地で、向かい合った相手とのあいだは十二メートル。
学年二位の魔術師は、長杖を斜めに構えて間合いを保っていた。レンは右手を腰の高さに浮かせたまま、審判の合図を待つ。腹に空気を溜める。
合図が落ちた。
レンが先に動いた。砂を蹴って前に踏み込み、その勢いのまま指先を相手の足元へ向ける。
「『烈破』」
破裂音が砂を巻き上げた。相手が半身を引く。レンはそこで足を止めず、左へ切り返してさらに二歩詰めた。
「『斬閃』」
刃のような圧が空気を裂いて走り、相手は障壁ごと一歩横へずれた。観客席のどこかから、押し殺した「速い」という声が耳の端を掠めていく。
もう一発。さらに前へ踏み込みながら、指を突き出す。
「『烈破』ッ」
砂と魔力の混ざった臭いが鼻を抜けた。距離は八メートルまで縮まっている。C級は、これで尽きた。
◇
相手の眉が初めて寄った。
障壁を張り直す手つきが、ほんの一拍だけ遅れる。レンはその一拍を逃さない。砂地の真ん中で踏ん張って足を止め、両腕を胸の前で大きく広げて構えを作った。掌を相手のほうへ向け、肩から押し出すように腕を前へ伸ばしていく。
「『蒼雷咆哮』」
青い帯が掌の先から走り、相手の中位魔法を真正面から弾き返した。観客席が、大きくどよめく。
「言霊で……ここまで」
相手の声が掠れて落ちた。返しの杖が空を切る。属性付きの遠距離魔法が螺旋を描いて飛んでくるのが見えて、レンは下がらなかった。むしろ砂を蹴って、前へ跳んだ。魔法の弧を肩でくぐるように身体を低くして、五メートルの懐へ滑り込んでいく。
息が浅い。胸の前で両手を合わせ、見えない球を抱え込むような形に指を曲げて、そのまま相手のほうへ差し出す。
「『紅蓮大華』」
炎の花が相手の正面で開いた。命中。膝が崩れる——ように見えて、相手はもう一度立ち上がる。固い。学年二位の意地が剣のような一撃になって返ってきた。レンは砂を噛んで、後ろへ転がった。背中に砂粒が擦れ、肩越しに空が一度だけ回る。立ち上がる。砂を払って、距離を七メートルに取り直した。
まだ立っている。お互いに、まだ立っている。
レンは両手を頭上に高く掲げた。指先まで力を通して、声を腹の底に置いていく。
「『天穹雷断』」
声と同時に、掲げた両手を一気に振り下ろす。雷の柱が相手の頭上から落ちて、相手は腕で受けた。脚が震えた。それでも、まだ膝はつかない。
◇
息を整える時間が、互いに必要だった。
七メートルの距離を挟んで、二人とも動きを止める。汗がひと筋、背中を流れていく。ノートの余白がもう本当に少ないことは、見なくてもわかる。
なぜか、手元が明るい気がした。
昨夜、薄暗い寮室で書きつけた名前——あの灯りが、まだ指先のどこかに残っている。誰かが隣にいて、ノートの文字がはっきり見えるくらいの光だけを、静かに足してくれた夜のひとつが、いま、ここにある。確信が一段、押し上がっていく。
レンは右足を大きく前へ踏み出して、腰を低く落とした。
左手をそっと右前腕の下に添える。柄に触れる手つきだった。右手は手刀の形に整えて、肘を引き、胸の前にぐっと引き絞る。抜刀の前の溜め。砂の上に、自分の影が一本の線になって落ちた。
声を腹に置く。
「『宵明けの刃』」
声と同時に、引き絞った右手を相手のほうへ水平に走らせた。
白い線が軌跡をなぞって走る。夜と朝の境目を断ち切るような一閃が、相手の障壁の上から滑り込んでいく。相手はふらついて、それから膝から崩れた。
会場が静まり返ったまま、誰も声を出せずにいる。
◇
審判の手が、ゆっくり上がった。
レンは額の汗を腕で拭って、息を整える。頭の中で残弾を並べ直した。B級が二、C級は零。決勝までに補充できる当てはどこにもない。それでも口の端が上がる。次の名前のことなら、ここで考えはじめられる。
歓声が遅れて闘技場を包んだ。レンは振り向いた。通路の奥、人垣の隙間に、長身の影が立っている。
長い前髪が顔を半分隠している。腕を組んで壁に背を預けたまま、こちらを真っ直ぐ見ていた。腰のあたりに、何かが在る。
レンの目が、見開かれた。
「あの人……剣を、持ってる? 魔術師、なのに?」
次回「ランキング戦・幕間」
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