第9話 名前を呼ぶ人
王都に来て、一ヶ月が経った。
ギルドの仕事にはすぐに慣れた。港湾部門の顧問として、王都近郊の三つの港の物流改善を任されている。辺境伯領の一港しか知らなかった私にとって、複数の港を俯瞰するのは初めての経験だった。でも帳簿の読み方は同じだし、船は船だし、商人は商人だ。
何より違ったのは、周りの人間の態度だった。
「カミラさん、この航路の按分なんですが」
「カミラさん、午後の会議の資料できました」
「カミラさん、昼食ご一緒しませんか」
カミラさん。カミラさん。カミラさん。
毎日、何度も名前を呼ばれる。同僚たちは私を「辺境伯夫人」とは呼ばない。肩書きではなく、名前で。
それがどれだけ嬉しいか、たぶん彼らは知らない。当たり前のことだから。当たり前のことが、三年間なかったなんて、想像もしないだろう。
◇
ある日の夕方、レオンさんと二人で港の視察に行った帰りのこと。
ギルドの事務所で報告書をまとめていたら、窓の外が夕焼けに染まっていた。二人とも書類に没頭していて、時間を忘れていた。
「もうこんな時間ですね。すみません、引き留めてしまって」
「いえ。……カミラさん」
「はい」
「あなたは港で働いている時が一番いい顔をしますね」
ペンが止まった。
「顔……ですか」
「ええ。帳簿を見ている時とか、船の入港を確認している時とか。目が違います」
顔のことを言われたのは初めてだった。辺境では帳簿しか見ていなかった。帳簿は顔の良し悪しを評価しない。
「辺境では、私の顔を見る人がいませんでしたから」
冗談のつもりで言ったのに、レオンさんは笑わなかった。
「もったいない」
小さく、けれどはっきりと、そう言った。
返事ができなかった。心臓が少しだけ速くなったのが分かったけれど、何の反応なのか自分で分からなかった。こういう感情を、しまい込みすぎて忘れている。
「……報告書、仕上げてしまいましょう」
「ええ、そうしましょう」
レオンさんはそれ以上何も言わず、書類に目を戻した。追いかけてこない。踏み込みすぎない。ただ、言うべきことだけを言って、待っている。
——この人の優しさは、ナディアさんに似ている。急かさないこと。
◇
翌週の昼、ギルドの受付から伝言が来た。
「カミラさんに面会の方がいらっしゃっています。辺境伯ヴェルナー・ヴァルトシュタイン様です」
手が止まった。
来た。
分かっていた。いつか来るだろうとは思っていた。港が回らなくなれば、引き継ぎ書だけではどうにもならなくなれば、来るだろうと。
深呼吸をして、応接室に向かった。
扉を開けると、ヴェルナーが立っていた。旅装のまま、埃をかぶっている。馬車ではなく馬で来たのだろう。急いだのか。
「カミラ」
——名前を呼ばれた。
三回目だ。数えている自分が嫌になるけれど、数えてしまう。三年間で、三回目。
「ヴェルナー様。お久しぶりです」
「帰ってこい」
挨拶もなく、本題だった。この人らしい。効率的だ。
「帰って——何をするのですか」
「港の管理だ。お前がいないと回らない。荷揚げは遅れる、帳簿は合わない、社交は滞る、ホルツマンには交易路を閉じると脅されている。全部、お前がいなくなったせいだ」
全部、お前がいなくなったせいだ。
聞こえた通りの言葉を、頭の中で繰り返した。
港の管理。帳簿。荷揚げ。交易路。全部、仕事の話だ。
「ヴェルナー様」
「何だ」
「今おっしゃったこと、全て業務の話ですね」
「……当然だろう。業務が止まっているんだ」
「ええ。業務が止まっているから、帰ってこいと。——妻が出て行ったから、ではなく」
ヴェルナーの表情が、ほんの一瞬だけ揺れた。
自分が何を言ったのか、今ようやく聞こえたのだろう。「帰ってこい」が、妻にではなく港湾管理者に向けられた言葉だったと。
「ヴェルナー様。一つ、聞いてもいいですか」
「何だ」
「三年間一緒に暮らして、あなたが私の名前を呼んだことが何回あったか、覚えていますか」
ヴェルナーが黙った。
「私は覚えています。三回です。結婚式の誓い。ホルツマン男爵に紹介された時。そして、今」
ヴェルナーの目が、わずかに見開かれた。
「三回のうち、最初の二回は、私に向けて呼んだのではありませんでしたね。誓いの文句と、取引先への紹介。私という人間に向かって、カミラ、と呼んだことは一度もなかった」
「……それは」
「今の職場では、毎日名前を呼んでもらえます」
声は震えなかった。泣いてもいなかった。もう、この人の前で泣く必要はない。
「それだけのことなんです、ヴェルナー様。毎日名前を呼んでもらえる。ただそれだけのことが、私にはどうしても必要だったのです。三年間、ずっと」
ヴェルナーは何も言わなかった。
怒りでも悲しみでもない顔をしていた。困惑。名前を呼ぶことが、なぜそんなに大事なのか、たぶん本当に分からないのだ。
分からないまま、立ち尽くしている。
——かわいそうだとは思わない。でも、不思議と憎くもなかった。この人は私を傷つけたかったのではない。ただ、人間に必要なものが何か、分からないだけなのだ。それが罪だと気づかないことが、一番の罪なのだけれど。
「お帰りください、ヴェルナー様」
「カミラ——」
「四回目ですね」
それだけ言って、微笑んだ。
ヴェルナーは何かを言いかけて、やめた。口を閉じ、背を向け、応接室を出ていった。
扉が閉まった後、椅子に座って、天井を見上げた。
終わった。三年間の結婚が、今終わった。書類上はまだ続いているけれど、心の中ではもう終わっている。
涙は出なかった。まだ出せなかった。
◇
夕方、ギルドの仕事を終えて建物を出たら、レオンさんが入口の脇に立っていた。
待っていたのだ。
「大丈夫でしたか」
「……聞こえていましたか」
「いいえ。ただ、辺境伯が来られたとは聞いたので」
大丈夫です、と言おうとした。いつも通りに。三年間ずっとそうしてきたように、「大丈夫です」と蓋をしようとした。
でも、口から出た言葉は違った。
「大丈夫、です。……いえ」
レオンさんが黙って待っている。急かさない。
「少し——泣いてもいいですか」
言ってしまってから、恥ずかしくなった。仕事相手に何を言っているんだ。三十路前の女が、ギルドの前で、泣いてもいいですかなんて。
レオンさんは何も言わず、隣に座った。ギルドの入口の脇の低い石壁の上に、並んで。
涙が出た。
三年分。
三年間泣かなかった涙が、止まらなかった。声は出さなかった。ただ、頬を伝って、顎から落ちて、石壁の上に点々と染みを作った。
レオンさんは隣にいた。何も言わなかった。ハンカチも出さなかった。背中をさすったりもしなかった。ただ、同じ方向を見て、同じ石壁に座って、いた。
それだけで十分だった。
泣き終わるまで、どのくらいかかったか分からない。目を拭って、鼻をすすって、隣を見た。
「……すみません。みっともないところを」
「みっともなくはないです」
「お世辞ですか」
「いいえ。泣ける人は、強い人です」
——泣ける人は、強い人。
三年間泣けなかった私は、弱かったのだろうか。それとも、泣けるようになった今が、少しだけ強くなったのだろうか。
「レオンさん」
「はい」
「ありがとうございます」
「何もしていません」
「いてくれました。それだけで十分です」
レオンさんが少しだけ目を逸らした。耳が赤い気がしたが、夕焼けのせいかもしれない。
立ち上がって、服の埃を払った。
「明日も仕事がありますね」
「ええ。明日は南港の視察です」
「行きましょう。——名前を呼んでもらえる場所に」
レオンさんが小さく笑った。
「カミラさん」
「はい」
「明日、迎えに行きます」
——五回目、ではない。レオンさんが私の名前を呼ぶ回数は、数えていない。数える必要がないほど、たくさん呼んでくれるから。
宿に帰る道で、ナディアさんに会った。仕事帰りだ。
「カミラさん、目が赤いですよ?」
「少し泣きました」
「えっ、何かあったんですか⁉」
「ヴェルナー様が来ました。帰ってこいと」
ナディアさんの顔が強張った。
「断りました。もう大丈夫です。本当に」
今度の「大丈夫」は嘘じゃなかった。
ナディアさんが私の顔をじっと見て、それからふっと力を抜いた。
「大丈夫な顔してます。——ちょっと泣いた後の、すっきりした顔」
「分かりますか」
「分かりますよ。一ヶ月一緒にいますから」
そうだった。この子は、私の顔を見てくれる人だった。最初からずっと。
「帰りに何か買って帰りませんか。今日は甘いものが食べたいです」
「賛成です。こういう日は、甘いものが要ります」
二人で笑って、菓子屋に寄った。
三年間、一人で歩いた帰り道。今は隣に人がいる。前にも人がいる。
名前を呼んでくれる人が、いる。




