第10話 本当に仲良くなりました
王都に来て、三ヶ月。
季節が一つ変わった。港の風は冷たくなり、街路樹が色づき始めている。
ギルドの港湾部門で正式な顧問職に就いた。仮採用ではない。レオンさんが推薦してくれたのではなく、三ヶ月の実績で選考を通った。「レオンの贔屓だろう」と言う声もあったが、帳簿を見せたら黙った。数字は嘘をつかない。それは三年間で学んだ、私の一番の武器だ。
今の部屋は、宿を出て借りた小さな一室だ。窓からは通りが見える。港は見えない。でも、毎朝ギルドに行けば港がある。帰る場所と働く場所が別にある。それだけで、辺境伯邸とは全く違う生活だった。
あの屋敷では、帰る場所と働く場所と孤独が全部同じ部屋にあった。
ナディアさんは、同じ通りの三軒隣に住んでいる。交易仲介所での仕事が認められて、今は内陸の小規模商人をまとめる仲介役をしている。ホルツマン家で学んだ交易路の知識が、ここでは正当な技能として評価されている。道具ではなく、専門家として。
毎朝、どちらかの部屋でお茶を飲む。それは辺境伯邸の頃と同じ。でも、意味が違う。あの頃は檻の中で寄り添っていた。今は、自分の足で立った二人が、会いたいから会っている。
◇
ある日の仕事帰り、レオンさんに声をかけられた。
「カミラさん、今夜時間はありますか。食事でもどうかと」
仕事の話だろうと思った。南港の改修計画か、来期の航路再編か。
「いいですよ。資料は持っていった方がいいですか」
「いえ。資料は要りません」
「……資料なしの食事ですか」
「ええ。仕事の話ではないので」
仕事の話ではない。
レオンさんと仕事以外の話をしたことは——ある。あの夕方、ギルドの前で泣いた時。あの時も、仕事の話ではなかった。でも、あれは例外だと思っていた。
「分かりました。どこに行きますか」
「ギルドの裏手に、小さな店があるんです。料理が美味いので」
レオンさんに連れられて入ったのは、六席しかない小さな食堂だった。壁にはランプが一つ。飾り気のない、でも清潔な店。
向かい合って座って、出てきたスープを一口飲んだ。美味しかった。
「本当に美味しいですね」
「ここの店主は元船乗りで、各地の港で覚えた味を出しているんです」
港の話になると、どうしても仕事の話に流れそうになる。でもレオンさんは今日、意識的にそれを避けているのが分かった。
食事が進んで、デザートの焼き菓子が来た頃、レオンさんが言った。
「一つ、聞いてもいいですか」
「商談ですか」
「いいえ」
「では、何ですか」
「明日、休みでしょう。空いていますか」
休日に。仕事ではなく。
「空いて……います。何かありますか」
「何もありません。ただ、会いたいだけです」
焼き菓子を持つ手が止まった。
会いたい。仕事がなくても。商談がなくても。帳簿がなくても。ただ、会いたい。
三年間の結婚生活で、一度も言われなかった言葉だ。
「レオンさん。それは——」
「仕事の話ではない、と言いました。あなたと仕事をするのは好きです。でも、仕事がなくてもあなたに会いたい。それは仕事の話ではないと思います」
不器用な告白だった。商人のくせに言い回しがぎこちない。でも、その不器用さが嘘でないことの証明になっていた。滑らかな言葉なら疑っただろう。滑らかな言葉の裏に何もなかった男を、三年間見てきたから。
「……私は」
言葉を探した。自分の気持ちを言語化する練習をしてこなかった。三年間殺してきた感情を、今さらどうやって言葉にすればいいのか分からない。
でも、分からないまま、口を開いた。
「私も、そう思います」
下手だ。もっと気の利いたことを言えればいいのに。でも、これが精一杯だった。
レオンさんが、ふっと笑った。安堵の混じった、柔らかい笑み。
「よかった。断られたら、明日の会議が気まずくなるところでした」
「商人のくせに、リスク管理が甘いですね」
「あなた相手だと、いつも計算が狂います」
笑った。二人で笑った。
テーブルの上で、レオンさんの指先が私の手に触れた。
引っ込めなかった。引っ込めたくなかった。
温かかった。ナディアさんの手とは違う温かさだった。馬車の中で握った手は「一人じゃない」という温かさだったけれど、この手は「あなたがいい」という温かさだった。
窓の外に、夜の王都が広がっている。知らない街で、知らない食堂で、知らない未来の話をしている。三ヶ月前には想像もできなかった場所にいる。
怖くない。不思議と、怖くない。
◇
翌朝、ナディアさんの部屋でお茶を飲みながら、昨夜のことを話した。
「ナディアさん、実は昨日——」
「レオンさんに告白されたんでしょう」
「……なぜ分かるんですか」
「カミラさん! 気づいていないのはカミラさんだけでしたよ! レオンさん、カミラさんを見る目がずっと違いましたから!」
「そんなに分かりやすかったですか」
「分かりやすかったです! ギルドの受付の人たちも言っていました、『あの二人はいつまとまるのかしら』って」
「……恥ずかしいですね」
「恥ずかしくないです! おめでたいことです!」
ナディアさんが本気で喜んでいた。目がきらきらしている。
この子は、私の幸せを自分のことのように喜んでくれる。辺境伯邸で最初に会った夜、怯えて震えていた子が、今はこんな顔をしている。
「ナディアさん」
「はい」
「あなたはどうですか。交易所の方で、誰か気になる人は」
「私はまだいいです。今は仕事が楽しいので。……それに」
「それに?」
「もし誰かを好きになったら、次は自分で選びます。お父様に決めてもらうのではなく。ヴェルナー様に揃えてもらうのでもなく。自分で」
その言葉を聞いて、胸の奥が熱くなった。
この子は大丈夫だ。もう、大丈夫。
◇
辺境伯領のことは、ギルドの情報網で時々耳に入る。
港湾の取引量が三割減ったこと。ホルツマン男爵が交易路の使用契約を打ち切ったこと。近隣の領主との社交が途絶えていること。ヴェルナーが新しい管理者を雇ったが、三人目でもまだ業務が安定しないこと。
ヴェルナーは今もたぶん「優秀な人材が見つからない」と思っているのだろう。「カミラに会いたい」ではなく。
私がいなくなっても、彼は何を失ったか分からないままだ。分かったのは「港が回らない」ということだけ。名前を呼ぶことの意味も、隣にいることの意味も、結局最後まで分からなかった。
それでいい。もう、あの人に分かってもらう必要はない。
分かってくれる人は、ここにいるから。
◇
日曜日の午後。
ナディアさんと王都の小さな茶店に入った。窓際の二人掛けの席に座って、お茶を頼んだ。
向かい合って座っている。
最初にこの二人が向かい合ったのは、辺境伯邸の食堂だった。あの時、ナディアさんは俯いていて、私はフォークを置いたばかりで、ヴェルナーは書斎に消えていった。
今、ナディアさんは笑っている。私も笑っている。ヴェルナーはいない。
「カミラさん」
「はい」
「あの時は、こうなるとは思いませんでした」
「ええ。私もです」
「仲良くしろって言われた時、正直、死にたいくらい嫌でした」
「私もです。正直、毒を入れようかと思いました」
「嘘ですよね?」
「嘘です。いいお茶に入れると言ったでしょう」
二人で笑った。あの日のことを笑い話にできるようになった。それだけで、三ヶ月分の時間には意味があった。
「でも——」
ナディアさんがカップを両手で包んで、湯気の向こうから私を見た。
「仲良くしろとは言われましたけれど」
「ええ」
「本当に仲良くなりましたね」
「ええ。本当に」
店の扉が開いた。
「遅くなった。待たせたか」
レオンさんが入ってきた。外套に秋の風を連れている。
ナディアさんが慌てて席を立とうとした。
「あっ、お邪魔でしたね、私はこれで——」
その手を掴んだ。
「座ってください。あなたも一緒です」
「でも、お二人の——」
「ナディアさん。あなたがいなかったら、私はここにいません。一人で出ていく勇気はなかった。あなたが隣にいてくれたから、私は檻を出られた。お茶くらい、一緒に飲んでください」
ナディアさんの目が潤んだ。でも泣かなかった。代わりに、笑った。
「……はい」
レオンさんが椅子を一つ引いてきて、三人掛けにした。
「何を飲む?」
「このお店のお茶が美味しいんです。三人分、お願いします」
三人分のお茶が来た。窓の外には、王都の秋の空が広がっている。
カップを持ち上げて、一口飲んだ。
美味しかった。
◇
仲良くしろと言われて始まった関係が、私の人生で一番大切なものになった。
皮肉だと思う。
でも、この皮肉がなければ、私はまだあの空っぽな食堂で一人、フォークを置いていただろう。味のしない魚を食べて、誰にも名前を呼ばれない夜を過ごして、帳簿だけが友達の人生を送っていただろう。
だから——ありがとう、と言うつもりはない。あの人に感謝する義理はない。
ただ、ナディアには言える。
ありがとう。
あなたが来てくれて、よかった。あなたが「ごめんなさい」と言ってくれたあの夜から、私の人生は変わり始めた。
——あ、また「さん」を付け忘れた。
まあ、いいか。友達なのだから。




