表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
仲良くしろと言われた愛人と、本当に仲良くなりました  作者: 九葉(くずは)


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
8/10

第8話 名前を呼んでほしかっただけでした

 王都は、大きかった。


 馬車を降りたとき、最初に思ったのはそれだった。辺境の港町とは比べものにならない。建物が高く、道が広く、人が多い。ナディアさんと二人で荷物を持って立っていたら、人の波に押し流されそうになった。


「カミラさん、人がすごいです」


「ええ。まずは宿を探しましょう。安いところを」


 路地裏の小さな宿を見つけた。二人部屋で、ベッドが二つ。窓からは裏通りしか見えない。辺境伯邸の書斎とは雲泥の差だ。


 でも、ナディアさんが窓を開けて「風が気持ちいいですね」と笑ったので、ここでいいと思った。


 荷物を置いて、財布の中身を数えた。三年分の給金の残り。贅沢しなければ二ヶ月は持つ。でも、早く仕事を見つけなければ。


「明日、商人ギルドに行ってみます」


「私も何か探します。交易の仕事なら、できることがあるかもしれない」


 ナディアさんは、もう「私なんかにできるでしょうか」とは言わなかった。



  ◇



 ——同じ頃、辺境伯領。


 カミラが去って四日目。


 港は混乱していた。


 入港した商船五隻のうち、荷揚げの手配が完了していたのは一隻だけだった。残り四隻の船長が事務所に押し寄せ、怒鳴り声が響いている。


「手配表はどこだ! いつもなら前日に届いているはずだろう!」


 使用人たちが引き継ぎ書を開くが、業務の量に圧倒されている。カミラが一人でこなしていた仕事を三人がかりでやっても追いつかない。


 社交の問題も噴出した。近隣の伯爵家からの晩餐会の招待状が、二週間返信されないまま放置されていた。カミラが毎週処理していた社交の書簡が、丸ごと止まっていたのだ。


「無礼にもほどがある」と伯爵家から抗議の使者が来た。ヴェルナーは「すぐに返信する」と答えたが、返信の文面の書き方が分からなかった。カミラがいつも、どの家にどの格式で返信していたか、彼は知らない。


 そして、帳簿。


 月末の税の精算を使用人に任せたところ、計算が合わない。カミラが独自に設定していた按分比率の意味が分からず、使用人は教科書通りの計算をした。結果、港湾税を二割過払いしていることが判明した。


 ヴェルナーは書斎で拳をテーブルに叩きつけた。


「なぜこうなる」


 その声を聞いて、ブリギッテが書斎の前に立った。


「旦那様。一つ、申し上げてもよろしいでしょうか」


「何だ」


「奥様がどれだけのことをなさっていたか——旦那様はご存じありませんでしたね」


 ヴェルナーが顔を上げた。ブリギッテを見る。二十年仕えてきた女中頭が、初めて自分を真正面から見ている。


「荷揚げの手配。帳簿の管理。社交の返信。使用人の給与計算。取引先との交渉。来客の対応。港湾税の按分。全て、奥様がお一人でなさっていました」


「……それは知っている」


「いいえ。旦那様は、結果だけをご存じでした。港が回っている、帳簿が合っている、社交が滞りない。それだけです。その裏で誰がどれだけ働いているか、一度もお尋ねになりませんでした」


 ヴェルナーは何も言わなかった。言えなかったのかもしれない。


 ブリギッテは一礼して下がった。二十年間で初めての直言を、この日に使った。



  ◇



 翌朝、王都。


 商人ギルドの受付で名前を告げたら、奥から聞き覚えのある声がした。


「カミラさん?」


 レオン・ケスラーが、書類の束を抱えて現れた。驚いた顔をしている。


「……辺境伯領から、こちらに?」


「ええ。少し事情がありまして」


 レオンさんは私の後ろに立っているナディアさんを見た。二人とも旅装のまま、鞄一つずつ。状況は見れば分かるだろう。


 でもレオンさんは事情を聞かなかった。代わりに言ったのはこうだ。


「仕事を探しに来られたのですか」


「はい」


「うちで働きませんか。港湾部門の顧問が一人足りない。あなたの能力なら即戦力です」


 あまりにもあっさりした申し出に、少し面食らった。


「レオンさん。私は辺境伯の妻で、隣にいるのはその愛人です。二人揃って屋敷を出てきた女を、ギルドが雇うのですか」


「愛人?」


 レオンさんがナディアさんを見た。ナディアさんが少しだけ身を縮める。


 レオンさんは三秒ほど二人の間を見比べて、首をかしげた。


「愛人ではなく、友人でしょう。見れば分かります」


 ——見れば分かる。


 この人には、見えるのか。私たちの間にあるものが。


 ヴェルナーは三年一緒に暮らしても見えなかったものが、この人には数秒で見える。


「……ありがとうございます」


「礼には及びません。優秀な人材を確保するのはギルドの仕事です。——ただし」


「ただし?」


「仕事として声をかけています。事情に同情したからではありません。それだけは誤解しないでください」


 なるほど。この人はちゃんとしている。同情ではなく能力で判断していると、わざわざ言ってくれる。それは、私を対等に扱っているということだ。


「誤解しません。仕事でお返しします」


「期待しています」


 レオンさんが手を差し出した。握手。商人の契約の挨拶。


 その手を握ったとき、ヴェルナーと握手をした記憶がないことに気づいた。結婚式の時ですら、手を取られた覚えがない。



  ◇



 ナディアさんはギルドでの仕事は辞退した。


「カミラさんと同じ場所に甘えるのは、やめます。自分で探します」


 王都の下町にある小さな交易仲介所が、内陸の商路に詳しい人間を探していた。ナディアさんはホルツマン家で学んだ交易路の知識を買われ、その日のうちに仮採用された。


「カミラさん、決まりました!」


 宿に戻ったナディアさんの顔が輝いていた。来た時とは別人のような顔。


「よかった。おめでとうございます」


「お給金は少ないですけど、自分で稼いだお金です。初めてです、こういうの」


 ——自分で稼いだお金。


 ナディアさんにとっては、初めての経験なのだ。実家ではお父さんの管理下、辺境伯邸では夫の愛人という肩書きの下。自分の力で得た報酬は、二十年の人生で初めて。


「最初のお給金で、何を買いますか」


「お茶です。カミラさんと飲む用の、美味しいやつ」


 笑った。嬉しくて笑った。



  ◇



 ——同じ夜、辺境伯邸。


 ヴェルナーは書斎で引き継ぎ書を読み直していた。


 今度は最初からちゃんと読んだ。一ページずつ。カミラが三年間やってきた仕事の全容が、淡々と記されている。


 荷揚げの手配基準。関税の按分方法。取引先ごとの交渉の癖。社交の招待状の返信テンプレート。使用人の勤務表。季節ごとの港の混雑予測。


 一人の人間がこれを全て回していたのか。


 最後のページをめくった。


 業務一覧は前のページで終わっていた。最後のページは白紙——のはずだった。


 右下の隅に、小さな文字で一行だけ、書かれていた。



   一度でいい。名前を呼んでほしかっただけでした。



 ヴェルナーの手が止まった。


 名前を呼ぶ。カミラ、と。


 呼んだことがあっただろうか。記憶を辿る。結婚式。「カミラ・ブレンナーを妻として迎える」——あれは誓いの文句だ。日常の中で、彼女の名前を呼んだことは。


 「おい」と呼んだことはある。「港の件は」と話しかけたことはある。「カミラ」と——名前だけを、ただ呼んだことは。


 思い出せなかった。


 ヴェルナーは引き継ぎ書を閉じた。


 書斎は静かだった。帳簿が並んでいる。ペンが置いてある。インク壺がある。カミラが毎朝座っていた椅子がある。全部ある。一つだけ、ない。


「……カミラ」


 声に出した。誰もいない書斎で。


 返事はなかった。


 当然だ。もう、ここにはいない。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ