第7話 仲良くしろとおっしゃったのは旦那様ですよ?
夜明け前に目が覚めた。
窓の外はまだ暗い。港の灯台だけが、ぼんやりと光っている。三年間、毎朝見てきた景色だ。今日で最後になる。
寝台から起き上がって、昨夜のうちにまとめておいた荷物を確認した。鞄一つ。着替えが三日分と、下着と、母の形見の小さなブローチ。それだけ。
三年間暮らした屋敷から持ち出すものが、鞄一つに収まってしまう。笑えない冗談だ。
でも、もう一つだけ、目に見えないものを持っていく。三年分の港湾管理の知識と経験。これだけは、誰にも奪えない。ヴェルナーが婚姻契約の第七条で買ったつもりでいるものは、私の頭の中にある。帳簿を置いていっても、中身は私と一緒に出ていく。
身支度を整えて、書斎に向かった。
◇
引き継ぎ書は、昨日のうちに書き上げてある。
港湾管理の全業務を項目ごとにまとめた。入港手続き、荷揚げの手配方法、関税の計算基準、取引先一覧と各社の担当者名、社交の招待状の返信手順、使用人の給与支払日と金額、帳簿の締め日。
全部で二十三ページになった。三年間の仕事を文字にすると、たった二十三ページ。多いのか少ないのか分からない。
引き継ぎ書の上に、手紙を一通置いた。
辺境伯ヴェルナー様
港湾管理業務の引き継ぎ書を同封いたします。
未処理案件の一覧は別紙のとおりです。
三年間、お世話になりました。
なお、ナディアさんも同行いたします。
仲良くしろとおっしゃったのは旦那様ですので、
ご指示通り、仲良くさせていただきます。
カミラ
署名は「辺境伯夫人カミラ・ヴァルトシュタイン」ではなく、ただの「カミラ」にした。
最後くらい、肩書きではなく名前で終わりたかった。
ペンを置いて、書斎を見回した。三年間、毎朝ここに座って帳簿を開いた。窓から港が見える、この席が好きだった。
——好きだったのは、席と港であって、この屋敷ではなかった。それに気づくのに三年かかった。
引き出しを全て確認し、私物がないことを確かめた。書斎に私の痕跡は残らない。帳簿と引き継ぎ書と、あの手紙だけ。
扉を閉めた。振り返らなかった。
◇
玄関でナディアさんが待っていた。
彼女も鞄一つだった。来た時から荷物が少なかったのだ。持ち出すものがないのではなく、最初から何も持っていなかった。
「おはようございます、カミラさん」
「おはようございます。準備はいいですか」
「はい。——あ、一つだけ」
ナディアさんが鞄から封筒を取り出した。
「お父様宛の手紙を書きました。ここを出ること、もう戻らないこと。それから——娘を取引材料にしたことを、私は許しません、と」
その言葉を聞いて、胸が詰まった。三週間前、「すみません」としか言えなかった子が、父親に「許さない」と書いた。
「ナディアさん。強くなりましたね」
「カミラさんのおかげです」
「私は何もしていませんよ。お茶を淹れて、帳簿を見せただけです」
「それが全部です」
玄関の扉を開けると、朝の冷たい空気が流れ込んできた。港の潮の匂い。
廊下の奥に、使用人たちの気配があった。見送りに来ている。表には出てこないが、そこにいることは分かる。
ブリギッテだけが、玄関の脇に立っていた。
「馬車の手配は済んでおります。王都まで三日の行程です」
「ありがとう、ブリギッテ」
「荷台に食料を積んでおきました。道中の宿代は——」
「大丈夫です。自分の蓄えがあります」
三年間、使う先のなかった給金が少しだけ残っている。夫に買ってもらったものは何一つ持ち出さない。
ブリギッテが私たちの顔を見て、小さく頷いた。
「どうぞ、良い旅を」
その声が少しだけかすれていた。
「カミラ様。ナディア様」
「はい」
「お二人が笑っていらっしゃるのを見られて、よかったです」
——この人には、いつか必ず恩を返そう。
頭を下げて、馬車に乗り込んだ。ナディアさんが隣に座った。御者が手綱を取り、馬車が動き出した。
屋敷が遠ざかる。港が遠ざかる。三年間の全てが、少しずつ小さくなっていく。
振り返らなかった。一度も。
◇
——同日、夕方。辺境伯邸。
ヴェルナーが港から戻り、書斎に入った。
机の上に見慣れない書類の束が置いてある。その上に手紙が一通。カミラの筆跡だ。
封を切って読んだ。
最初の三行は事務連絡だった。引き継ぎ書。未処理案件。三年間お世話になりました。
四行目から、意味が分からなくなった。
『なお、ナディアさんも同行いたします。仲良くしろとおっしゃったのは旦那様ですので、ご指示通り、仲良くさせていただきます』
手紙を持つ手が止まった。
同行。ナディアも。仲良くしろと言ったのは——。
ヴェルナーは手紙を机に置き、屋敷の中を歩いた。カミラの部屋。空だった。ナディアの部屋。空だった。衣装も、小物も、何もない。痕跡すらない。
玄関に立っていたブリギッテに聞いた。
「妻は」
「今朝、お発ちになりました。ナディア様とご一緒に」
「なぜ止めなかった」
「止める権限は、使用人にはございません」
ヴェルナーの顔が強張った。
怒っている。だが、その怒りの方向がおかしい。
「引き継ぎ書を確認する。港の業務が滞るわけにはいかない」
書斎に戻って引き継ぎ書を開いた。二十三ページ。丁寧に項目分けされた業務一覧。
——彼が最初に確認したのは、妻の行き先ではなく、港の業務の引き継ぎだった。
その夜、港の管理事務所から伝令が来た。
「明日入港予定の商船三隻の荷揚げ手配が確認できません。奥様がいつも前日に手配表をお作りになっていたのですが——」
「使用人にやらせろ」
「手順が分かる者がおりません。奥様の指示で動いておりましたので」
ヴェルナーは引き継ぎ書の該当ページを開いた。『荷揚げ手配:入港二日前に船種と積荷量を確認し、作業員を人数別に割り当てる。割り当て基準は別紙Aを参照』。
別紙Aを探した。細かい数字と条件分岐が三ページにわたって書かれている。
これを、カミラは毎朝一人でやっていたのか。
——いや、違う。「やっていた」のではない。「やっていたことすら知らなかった」のだ。
ヴェルナーは引き継ぎ書を閉じ、椅子の背にもたれた。
書斎は静かだった。いつもと同じ静けさのはずだが、何かが足りない。何が足りないのか、彼には分からなかった。
◇
馬車が街道を走っている。
窓の外に、見たことのない景色が流れていく。辺境の港町を出て半日。畑と森が交互に現れ、時々小さな村が見える。
「カミラさん」
「はい」
「怖くないですか」
怖い。
怖くないわけがない。行く先に仕事の保証はない。住む場所もない。手持ちの金は多くない。三年間の安定を、自分の手で壊した。
「怖いです」
正直に言った。
「でも、あの家にいる方がもっと怖かった」
「もっと怖い……ですか」
「ええ。自分が自分でなくなっていくのが。帳簿の部品として、少しずつ人間をやめていくのが。気づいたら、三年間笑っていなかった。それは——怖いですよ」
ナディアさんが黙って、私の手を取った。
小さくて、少しだけ冷たい手。鞄の取っ手を握りしめていたのだろう。
その手を、握り返した。
——三年間、誰にも触れてもらえなかった手で。
温かかった。手を握るだけのことが、こんなに温かいなんて知らなかった。知っていたはずなのに、忘れていた。
「カミラさん」
「はい」
「王都に着いたら、まず何をしますか」
「まず……そうですね。二人分のお茶を買いましょう」
ナディアさんが笑った。私も笑った。
馬車は走り続ける。後ろには何も残していない。前には何もまだない。
でも、隣に人がいる。それだけで、道は怖くない。




