第6話 辞表を書きます
きっかけは、些細なことだった。
いや——些細ではなかった。些細だと思おうとした自分がいただけで、本当は、三年間で一番はっきりと突きつけられた瞬間だった。
朝、ヴェルナーが食堂に来た。珍しく、二日連続だ。
「おい。来週、ゲルツ商会の代表が港に来る。大口の長期契約の話だ」
「ゲルツ商会。穀物の大手ですね。こちらから提案していた航路統合の件でしょうか」
「ああ。その席に、ナディアを同席させてくれ」
一瞬、意味が分からなかった。
「……ナディアさんを?」
「ゲルツ商会はホルツマン家と取引がある。ホルツマンの名前があった方が話がまとまりやすい」
ホルツマンの名前。
ゲルツ商会との交渉は、私が半年かけて準備してきた案件だ。航路の分析も、条件のたたき台も、先方との事前のやり取りも、全て私がやった。
それを、家名の顔合わせのために、ナディアさんに座らせる。
「ヴェルナー様。この案件は私が担当しております。交渉の経緯をご存じない方が同席されると、先方が混乱するかと思いますが」
「形式的に顔を出すだけだ。実務はお前がやればいい」
——形式的に。
つまり、交渉の中身は私がやれ。でも席にはナディアさんを座らせろ。ホルツマンの看板が必要だから。
三年間の仕事が、家名一枚で上書きされようとしている。
「承知しました」
いつも通りに答えた。ヴェルナーはいつも通りに頷いて、出ていった。
食堂に残されたのは、私と、向かいで顔を青くしているナディアさん。
「カミラさん」
「大丈夫です」
「大丈夫じゃないです。カミラさんの手、震えています」
——気づかれた。
テーブルの上の手を見た。確かに、指先が小さく震えていた。
三年間、泣かなかった。怒鳴らなかった。帳簿に逃げて、港に逃げて、「承知しました」で全部蓋をしてきた。
でも、今、手が震えている。
この震えは、怒りだ。悲しみではない。三年かけて築いた仕事を、何も知らない人間が家名一つで取り替えられると思っている男への、純粋な怒り。
そして初めて思った。
——もう、承知しません。
◇
ゲルツ商会の交渉の日。
ナディアさんは私の隣に座った。ヴェルナーが指定した席順では、ナディアさんが上座で私は書記の位置だったが、ナディアさんが拒否した。「私は書記をします。カミラさんが交渉してください」と。
結局、私が交渉を主導した。ゲルツ商会の代表は最初から私を見ていた。半年間やり取りしてきた相手が私であることを知っているからだ。ナディアさんが隣にいても、代表の視線は私に向いていた。
交渉はまとまった。むしろ条件は最初の提案より良くなった。
代表が帰った後、ナディアさんが書類を片付けながら小さな声で言った。
「カミラさん。私、あの席に座るべきじゃなかった」
「ナディアさんのせいではありませんよ」
「分かっています。でも、あれはカミラさんの席です。カミラさんが半年かけて作った席です。私の家の名前で取れる席じゃない」
この子は分かっている。三週間一緒に仕事をしてきたから、交渉の席がどれだけの準備で成り立っているか、見てきたから。
「ナディアさん」
「はい」
「ありがとう。それを言ってくれて」
ヴェルナーは三年間、一度もそれを言わなかった。
◇
夜。
部屋に戻って、便箋を引き出しから取り出した。
書斎に残してきた帳簿のことが頭をよぎる。引き継ぎ書を書かなければ。未処理の案件一覧。来月の入港予定。ゲルツ商会の後続対応。税の精算時期。使用人の給与日。
全部、私がいなくなった後に回らなくなることだ。
——回らなくなればいい。
その思考が浮かんだとき、自分でも少し驚いた。三年間、この港を回すことが私の存在理由だった。それを手放すのは怖い。怖いけれど、今日の交渉の席で確信した。
私がどれだけ働いても、ヴェルナーはそれを「カミラの仕事」とは認識しない。「港が回っている」としか思わない。蛇口をひねれば水が出ると思っている人に、水道管の配管を説明しても意味がない。
便箋にペンを走らせていたら、ノックが聞こえた。
「カミラさん、起きていますか」
「どうぞ」
ナディアさんが入ってきて、私の手元を覗き込んだ。
「何を書いているんですか?」
「辞表です」
ナディアさんが目を丸くした。
「辞表? 離縁届じゃなくて?」
「ええ。あの人にとって私は妻ではなく港湾管理者ですから。辞表の方が正確でしょう」
ナディアさんが、一瞬ぽかんとした。
それから、くしゃっと顔を歪めて、笑いながら泣いた。笑っているのに涙が出ている。どちらが本当か分からない顔で。
「カミラさん、そういう言い方……ずるいです」
「泣かせるつもりはなかったのですが」
「泣いてません。笑っているんです」
嘘つきだ。でも、嫌な嘘ではなかった。
「ナディアさん」
「はい」
「一緒に出ますか」
ナディアさんの涙が止まった。私の顔をまっすぐ見ている。
「一緒に出たら、お父様との関係は壊れるかもしれません。交易路のことがありますから、ホルツマン家にとって不利益になります。それでも、いいですか」
ナディアさんは少し黙った。窓の外を見た。港の灯を見た。それから、自分の手を見た。
この三週間で、この手は帳簿を覚えた。荷揚げの書類を書けるようになった。一人では何もできないと思っていた手が、今は仕事ができる手になっている。
「お父様は」
「はい」
「私をここに送った時点で、もう壊れています。親子の関係は」
——ナディアさんが、初めて「すみません」を言わなかった。
来たばかりの頃のナディアさんなら、「すみません、わがままを言って」と謝っただろう。今は違う。自分の判断を、自分の言葉で言えている。
「行きます。カミラさんと一緒に」
「……ありがとう」
「お礼を言うのはこちらです。一人だったら、一生あの部屋で泣いていました」
二人で、静かに笑った。
◇
翌朝、早くに起きて、ブリギッテを呼んだ。
使用人の取りまとめは全てブリギッテに引き継ぐ。帳簿の基本的な処理手順は、今日中に書面にして渡す。残りは引き継ぎ書にまとめる。
説明を終えたあと、私はブリギッテに頭を下げた。
「三年間、お世話になりました」
ブリギッテは無表情のまま、少し黙っていた。この人はいつもそうだ。大事なことを言う前に、ちゃんと間を置く。
「奥様」
「はい」
「——いえ。カミラ様」
奥様ではなく、カミラ様。この人が私を名前で呼んだのは、三年で初めてだった。
「遅すぎるくらいです」
ブリギッテの声が、ほんの少しだけ震えていた。
ああ。この人は、ずっと待っていたのだ。
私がここを出ると言うのを。
「ブリギッテ。あなたに迷惑がかかるかもしれません」
「ご心配には及びません。旦那様は使用人のことなど見ておりませんから。帳簿が合えば何も聞かれません」
——その通りだ。帳簿が合えば、人が一人いなくなっても気づかない男だ。
「どうかお元気で、カミラ様。ナディア様もご一緒ですね」
「ええ」
「よかった。お一人では、少し心配でしたから」
ブリギッテが、初めて笑った。小さな、控えめな、でも確かな笑み。
——泣きそうになった。踏みとどまったけれど、危なかった。
明日の朝、ここを出る。
三年間暮らした屋敷と、三年間回してきた港を置いて。
怖い。でも、隣にナディアさんがいる。
一人よりは、ずっとましだ。




