第5話 この檻は、居心地がよくなってきた
ナディアさんが来て、三週間。
私たちの日課はすっかり決まっていた。朝食を一緒に食べて、午前中は帳簿と港の仕事。昼に茶を飲んで、午後は港を歩いて、夕食も二人。
ヴェルナーの話はほとんどしなくなった。する必要がなかった。二人の生活は、あの人がいてもいなくても変わらない。
——それ自体が、もう答えなのだけれど。
「カミラさん、この書類の書き方であっていますか?」
「合っていますよ。数字も正確です。ナディアさん、覚えが早いですね」
「カミラさんの教え方がいいんです」
「お世辞を言っても茶菓子は増やしませんよ」
「お世辞じゃないです!」
ナディアさんは最近、声が大きくなった。来た日はずっと俯いて小声だった子が、今では帳簿の疑問点を自分から指摘するようになっている。
その成長が、純粋に嬉しかった。嬉しいと感じている自分にも驚いた。
この三年間、私は何かを「嬉しい」と思ったことがあっただろうか。帳簿が合ったときの達成感はある。港の取引がうまくいったときの満足感もある。でも、誰かの成長を見て嬉しいと感じたのは——たぶん、初めてだ。
◇
午後、港で荷揚げの立ち会いをしていたら、女中頭のブリギッテが昼食を届けに来た。
ブリギッテはこの屋敷に二十年仕えている古参の使用人で、先代の辺境伯の時代から帳簿と台所を見てきた人だ。口数は少ないが、屋敷の中で起きていることは全て知っている。
「奥様。ナディア様と、随分仲がおよろしいようで」
「仲良くしろと言われましたから」
「まさか本当に仲良くなるとは、旦那様も思っておられなかったでしょう」
皮肉だろうか。ブリギッテの顔を見たが、いつも通りの無表情だった。
「ブリギッテ。正直に聞きます。あなたは、どう思っていますか」
「何をでしょう」
「この状況を」
ブリギッテは少し黙ってから、まっすぐ私を見た。
「奥様がこの三週間で笑うようになったことを、嬉しく思っております」
——気づかれていた。
「三年間、奥様がお笑いになるのを、一度も見たことがございませんでした」
返す言葉がなかった。使用人にまで心配されていたのか。いや、使用人だからこそ見えていたのだろう。毎日顔を合わせて、毎日私の食事を用意して、毎日一人分の皿が下げられるのを見て。
「ブリギッテ」
「はい」
「……ありがとう」
何に対しての礼なのか、自分でもよく分からなかった。でも、ブリギッテは小さく頭を下げた。分かってくれたのだと思う。
◇
その翌日、レオン・ケスラーが再び港にやってきた。
先月の香辛料取引の後続契約と、新しい航路の相談だという。前回と同じように、事務所で私と交渉する。ナディアさんは隣で書記を買って出てくれた。
交渉はスムーズに進んだ。レオンさんはこちらの提案に対して常に根拠を求め、根拠があれば素直に受け入れる。感情で判を押さない人だ。仕事がしやすい。
契約が一通りまとまったところで、レオンさんがさりげなく言った。
「前回もお二人でしたね。いつもご一緒なのですか」
「ええ。最近は、だいたい一緒です」
レオンさんがナディアさんを見て、私を見て、また書類に目を戻した。何か気づいた顔をしていたけれど、聞かなかった。
代わりに言ったのは、こういう言葉だった。
「カミラさん——あ、失礼。辺境伯夫人と呼ぶべきですか」
「カミラで構いません」
「では、カミラさん。もし今後、ギルド本部で港湾の仕事をされる機会があれば、一度お話ししたいことがあります。仕事の話です」
「ギルド本部、ですか」
「ええ。あなたのような方が辺境の一港だけに収まっているのは、正直もったいないと思っていまして」
もったいない。前にナディアさんにも言われた言葉だ。私のことを「もったいない」と言う人が二人いて、夫は三年間で一度もそう思わなかった。
「ご提案はありがたいのですが、私はここの管理者ですので」
「ええ、もちろん。今すぐという話ではありません。ただ、選択肢はあるということだけ、お伝えしたくて」
選択肢。
その言葉が、思ったより深く刺さった。
レオンさんが帰った後、ナディアさんが私の顔を覗き込んだ。
「カミラさん、今の話、どう思いましたか」
「……仕事の話です」
「仕事の話をしている時のカミラさんの顔、私は好きですよ。でも、今のは仕事の顔じゃなかった」
——この子は、本当によく見ている。
◇
夕方、ヴェルナーが珍しく食堂に来た。
三人で食事を取るのは、ナディアさんが来てから初めてかもしれない。ヴェルナーは魚を食べながら、港の状況を聞いた。
「今期の香辛料取引はまとまったか」
「はい。ギルド本部のケスラー氏と契約しました」
「そうか。ナディアはどうだ、港に慣れたか」
「はい、カミラ様にたくさん教えていただいて——」
「そうか。二人でうまく回してくれ」
それだけ言って、ヴェルナーはスープを飲み干し、立ち上がった。
「俺は書斎に戻る。来月のホルツマンとの契約更新があるから、資料を準備しておいてくれ」
「承知しました」
ヴェルナーが出ていった後、食堂に静けさが残った。
ナディアさんが私を見ていた。何か言いたそうな目。
「どうしました?」
「……旦那様、『二人でうまく回してくれ』って言いましたね」
「ええ」
「嬉しそうでした」
「ええ」
「部下の報告を聞いている上司みたいでした」
——その通りだ。
ヴェルナーは満足している。妻と愛人が摩擦なく共存し、港の仕事も回っている。彼の定義する「うまくいっている」とは、こういうことだ。機能に問題がない。効率が維持されている。
人間として幸せかどうかは、項目にない。
◇
夜、二人でお茶を飲みながら、港の灯を見ていた。
最近、この時間が一番好きだ。帳簿もない、仕事もない、ヴェルナーもいない。ナディアさんと二人で、ただ温かい茶を飲んで、とりとめのない話をする。
でも、今夜はとりとめのない話ではなく、ずっと胸にあった問いを口にした。
「ナディアさん」
「はい」
「もし——ここを出られるとしたら、どうしますか」
ナディアさんがカップを置いた。少し考えている顔。すぐには答えない。この子は大事な質問にはちゃんと時間をかける人だ。
「お父様は怒ると思います。交易路のことがありますから」
「ええ」
「行く場所もありません。お金もほとんど」
「ええ」
「でも——」
ナディアさんが私を見た。
「カミラさんと一緒なら、どこへでも行けると思います」
心臓が、一拍だけ止まった。
「私は帳簿しか取り柄がない人間ですよ」
「帳簿ができる人は、どこでも生きていけます。カミラさんが教えてくれたんですよ、そう言って」
——言った。確かに言った。港で荷揚げの仕組みを説明した時に、「数字が読めれば、どこの港でも仕事はある」と。
自分の言葉が返ってくるとは思わなかった。
「ナディアさん」
「はい」
「まだ決められません。でも——考えています」
ナディアさんが頷いた。急かさなかった。「早くしてください」とも「いつ決めるんですか」とも言わなかった。ただ、静かに頷いて、お茶を飲んだ。
この子の優しさは、待てること。急かさないこと。それがどれだけ難しいか、三年間ヴェルナーに急かされ続けた私には分かる。
——ここを出るかもしれない。
口にはしなかった。でも、初めてその考えが「逃避」ではなく「選択肢」として頭に浮かんだ。
レオンさんの言葉が甦る。「選択肢はあるということだけ」。
ある。あるのだ。一人だった三年間には見えなかった出口が、二人になった途端に見え始めている。
この檻は、居心地がよくなってきた。ナディアさんがいるから。
でも、居心地が良くなったからこそ——このままでいいのか、と思う。
居心地のいい檻は、やっぱり檻だ。




