第4話 選ばれたのではなく、揃えられたのです
帳簿の真実を知った翌日も、朝は来る。
食堂でナディアさんと向かい合って、パンを齧る。昨日の夜あれだけのことを知って、今朝もいつも通り朝食を食べている。人間というのは案外しぶとくできている。
ナディアさんの目が少し腫れていた。昨夜、部屋に戻ってから泣いたのだろう。でも、朝になったらちゃんとここに来た。この子は泣いた後に立ち上がれる人だ。
「カミラ様、昨日の帳簿のことなのですが」
「はい」
「もう少し調べたいと、おっしゃっていましたよね。私も手伝ってもいいですか」
頷いた。もう隠す必要はない。
◇
書斎で、ヴェルナーとホルツマン男爵の間で交わされた書簡の控えを探した。
ヴェルナーは几帳面な男だ。送った手紙の控えを全て保管している。ただし、それを管理しているのは私なので、私が読めないものはない。三年間、読む理由がなかったから読まなかっただけだ。
ナディアさんと二人で、一年半分の書簡を時系列に並べた。
内容は全て、交易に関するものだった。
関税率の交渉。輸送路の開拓費用。中継地点の整備計画。季節ごとの相場予測。実務的で、詳細で、抜け目がない。ヴェルナーが有能な領主であることは、この書簡を読めば分かる。
ただ、一つだけ決定的に欠けているものがあった。
「ナディアさん」
「はい」
「三十二通ありました。あなたの名前が出てくるのは一通だけです」
ナディアさんが該当の手紙を取り上げた。
日付は八ヶ月前。内容はこうだ。
『ナディア嬢の滞在費について、次期の手数料から差し引く形で処理いたします。生活に不自由はさせませんのでご安心ください』
——「ご安心ください」。
交易路の使用料から、娘の生活費を天引きしますよ、という事務連絡。それ以上でも以下でもない。
ナディアさんが手紙を膝に置いた。
「……滞在費の処理報告ですね。出張者の経費精算みたい」
その言い方が妙に冷静で、逆に痛々しかった。笑っているけれど、目が笑っていない。
「ナディアさん、一つ聞いてもいいですか」
「はい」
「ここに来る前。ヴェルナー様から直接受け取った手紙はありますか」
ナディアさんが目を伏せた。
「……一通だけ。でも」
「でも?」
「お父様の手紙と一緒に届きました。お父様が『伯爵様からの手紙だ』と渡してくださって。でも、今思うと——筆跡を見比べたことがないんです」
——つまり、その手紙がヴェルナー本人の筆跡かどうかも分からない。
父親が書いた可能性がある。「伯爵様はお前を望んでいる」という嘘を裏付けるために。
確かめようがない。でも、確かめなくてもいい。三十二通の書簡が語っている。ヴェルナーはナディアさんに関心がない。関心があるのはホルツマン家の交易路だけ。
「カミラ様」
「はい」
「私、選ばれたのだと思っていました。ヴェルナー様に」
「……ええ」
「でも違いました。選ばれたのではなく、揃えられたんです。港の管理にカミラ様。交易路の確保に私。必要な機能を揃えただけ」
——この子は、私より上手に言葉にする。
揃えられた。そうだ。その通りだ。私たちは選ばれたのではない。ヴェルナーの領地経営に必要なパーツとして、調達されたのだ。
◇
書簡を片付けた後、二人で港の見える窓辺に座った。
何か言わなければと思うのに、言葉が出てこない。帳簿と書簡で裏付けを取ったことで、もう「もしかしたら」の余地がなくなった。
ナディアさんが先に口を開いた。
「カミラ様は、ご結婚された日のこと、覚えていますか」
「……覚えています」
「どんな気持ちでしたか」
答えたくない質問だった。でも、この子が聞いてくれるなら、答えていいと思った。
「嬉しかったです」
口に出したら、思ったより声が震えた。
「ばかみたいに嬉しかったです。白いドレスを着て、馬車に乗って、この港が見えた時に——ああ、ここが私の新しい場所なんだ、と。ヴェルナー様は口数が少ないけれど、誠実そうな方で、きっと時間をかければ分かり合えると。そう思っていました」
三年前の自分を思い出すと、泣きそうになる。泣きそうになるのが悔しい。
「ナディアさんは?」
「私も——嬉しかったです。ここに来る馬車の中で、お父様の言う通り、大切にしていただけるのだと。新しい生活が始まるのだと。怖かったけれど、それ以上に、期待していました」
ナディアさんの声も揺れていた。
「馬鹿ですよね、私たち」
「馬鹿ではないです」
「でも——」
「馬鹿なのは、期待した私たちではなく、期待させた側です」
ナディアさんが口を押さえた。泣いているのか、笑っているのか分からない顔。たぶん、両方。
「カミラ様……」
「はい」
「カミラ様は、お強いですね」
——強くない。強いふりをしているだけだ。三年かけて感情を殺して、帳簿に逃げて、港の仕事で自分を誤魔化してきただけ。
でも、それを今ここで言ったら、ナディアさんまで崩れてしまう気がした。だから飲み込んだ。
代わりに、別のことを言った。
「ナディアさん。一つ、お願いがあります」
「何ですか」
「カミラ様、と呼ぶのをやめてもらえませんか」
ナディアさんが目を丸くした。
「えっ……でも、奥様に対して呼び捨てなんて」
「奥様と愛人の関係は、もうやめませんか。帳簿の上では、私たちは二人とも同じです。港の部品と、交易路の部品。立場に差はないでしょう」
ナディアさんが黙った。窓の外の港を見ている。
しばらくして、小さく息を吐いた。覚悟を決めたような吐息。
「——カミラ、さん」
初めて、「様」が取れた。
たったそれだけのことだ。敬称が一つ変わっただけ。でも、その一言で、この部屋の空気が変わった。
私たちはもう、妻と愛人ではない。
同じ男に部品扱いされた、二人の女だ。
「ナディアさん。その方がいいです」
「……はい」
ナディアさんが笑った。今日初めての、嘘のない笑顔だった。
私も笑った。口元だけではなく、目の奥まで。こんなふうに笑えるのは、いつぶりだろう。思い出せないくらい、久しぶりだった。
◇
その夜、一人で部屋に戻ってから気づいた。
ナディアさんが来てから十日。最初の夜、あの子の「ごめんなさい」を聞いた時には、こうなるとは思っていなかった。
夫の愛人と友達になるなんて。
おかしな話だ。でも、考えてみれば最初からおかしかったのだ。妻に愛人の世話をさせる夫。愛人の生活費を愛人の実家に払わせる夫。三十二通の手紙に娘の名前を一度しか書かない取引先。
全部おかしいのだから、妻と愛人が友達になるくらい、もうどうということはない。
窓の外の港の灯を見ながら、少しだけ考えた。
このまま、ここにいるべきだろうか。
帳簿の部品として、港の管理を続けるべきだろうか。
——まだ分からない。でも、一つだけ分かることがある。
もしここを出ると決めたとき、一人ではないということ。
それだけで、昨日までとは全然違う。




