第3話 あの方は、どちらの味方でもありません
ナディアさんが来て、一週間が経った。
毎朝、二人で朝食を食べる。昼はお茶を飲みながら帳簿を広げる。午後は港へ出て荷揚げの確認をする。夕食も二人。
ヴェルナーは相変わらず書斎か港か、どこかにいる。食堂に来るのは三日に一度くらいで、来たとしても「港の件は問題ないか」と聞くだけだ。「ナディアとはうまくやっているか」とすら聞かない。自分で「仲良くしろ」と言ったくせに、その結果に興味がない。
——まあ、この人はそういう人だ。種を蒔いて水をやらないのは、三年前からずっと同じ。
ただ、一つだけ変わったことがある。
屋敷が静かじゃなくなった。
「カミラ様、これは何の帳簿ですか?」
「港湾税の徴収台帳です。入港する船ごとに、積荷の種類と量に応じて税率が変わります」
「えっ、船ごとに違うんですか?」
「ええ。香辛料と穀物では税率が三倍違いますから、申告を間違えると大損します」
「大変……。カミラ様、これを毎日お一人でやっていたんですか?」
「ええ、まあ」
「まあ、じゃないです!」
ナディアさんが声を上げるのが可笑しくて、つい口元が緩んだ。
この子は感情が表に出る。驚けば目を見開き、感心すれば声が上がり、呆れれば口が尖る。三年間、感情を殺して暮らしてきた私にとって、ナディアさんの一つ一つの反応が、妙に眩しい。
——人間って、こうやって笑ったり驚いたりするものだったな。忘れていた。
◇
午後、二人で港の倉庫の在庫確認をした帰り道、ナディアさんがぽつりと言った。
「私、ここに来る前は、ヴェルナー様に愛されているのだと思っていました」
足を止めた。
潮風が二人の間を吹き抜ける。ナディアさんは港の海を見つめながら、ゆっくりと続けた。
「お父様が『伯爵様はお前を大切にしてくださる』って。だから、頑張ろうと思って来たんです。お邪魔だって分かっていました。カミラ様がいらっしゃることも知っていました。でも、ヴェルナー様がどうしてもと望んでくださったのだと——」
「——お父様から、そう聞いたのですか」
「はい」
少し考えて、聞いた。
「ナディアさん。ヴェルナー様から直接、愛の言葉を言われたことは?」
ナディアさんが首をかしげる。思い出そうとしている。しばらくして、眉が少しずつ下がった。
「……言葉、ですか。あの……具体的には……」
「贈り物は?」
「お父様を通じて、生活のお金は頂いています」
「ヴェルナー様から直接?」
「……いえ。お父様の送金で」
「では、二人きりの食事は」
「一度だけ。ここに来る前に、お父様とヴェルナー様と三人で」
「お父様と三人、ですか」
「はい」
——二人きりが一度もない。
ナディアさんの表情が変わっていくのが分かった。一つ質問するごとに、何かが剝がれていく顔。確信だと思っていたものが、霧のように消えていく顔。
「カミラ様」
「はい」
「ヴェルナー様は……私のことを、どう思っていらっしゃるのでしょう」
答えるべきか迷った。今の私が持っている仮説は、まだ仮説だ。確証はない。でも、帳簿を確認すれば、たぶん裏が取れる。
「今日、確かめたいことがあります。少し待っていただけますか」
◇
書斎に戻って、帳簿を最初から洗い直した。
三年間つけてきた帳簿だ。収入と支出の全てが記録してある。ヴェルナーは一度もこれを確認していないが、私は帳簿だけには嘘をつかないと決めていた。
探したのは、ナディアさんに関する支出だ。
食費。被服費。生活費。この屋敷で彼女にかかっている費用は、当然ヴェルナーの領地経営費から出ているものだと思っていた。
——出ていなかった。
ナディアさんの生活費は、ホルツマン家からの交易手数料の中に含まれている。正確に言えば、ホルツマン家がこの港を使うために支払っている年間使用料から、ナディアさんの滞在費が差し引かれる形で処理されていた。
つまり、ヴェルナーはナディアさんに自分の金を一銭も使っていない。
ナディアさんの生活費は、ナディアさんの実家が出している。
ヴェルナーにとってナディアさんは、ホルツマン家の交易路をつなぎ止めるための担保だ。愛人ですらない。**取引の保証金**。
では、私は?
自分の婚姻契約書を引き出しから出した。三年前に一度読んだきり、しまい込んでいたもの。改めて読み直す。
第七条。
「妻は、辺境伯領における港湾管理業務の補佐を行うものとする」
——補佐。
婚姻契約書に、港湾管理の業務委託が書いてある。妻としての条項より前に。条文の順番は優先順位を表すと、法律に詳しい父が言っていた。
ヴェルナーは私を娶ったのではない。港湾管理者を雇ったのだ。婚姻という形式で。
帳簿と契約書を並べて、しばらく見つめた。
怒りは——不思議と、あまりなかった。薄々感じていたことの裏付けが出ただけ。答え合わせ。正解を引き当てた時の、乾いた納得。
ただ、胸の奥の、もっと深いところで、何かが冷えた。
◇
夜、ナディアさんを書斎に呼んだ。
帳簿の該当ページを開いて見せた。ナディアさんの生活費がホルツマン家の手数料から出ていること。婚姻契約書の第七条。
全部、見せた。
ナディアさんは、長い間黙っていた。
帳簿の数字を指でなぞっている。交易の手伝いをしていた子だ。数字が読める。数字が意味することも分かる。
「……お父様のお金なんですね。私の生活費」
「ええ」
「ヴェルナー様は、一銭も」
「一銭も」
ナディアさんが帳簿から手を離した。膝の上で、指を組んだ。
「カミラ様」
「はい」
「ヴェルナー様は——私たちのことを、愛人と妻だと思っていないのでは」
——この子は聡い。帳簿を見ただけで、同じ結論にたどり着いた。
「たぶん。あの方にとって私は港湾管理者で、あなたはホルツマン家との交易路の接続装置です」
ひどい言い方だと思った。でも、帳簿が示しているのはそういうことだ。数字は嘘をつかない。
ナディアさんが目を閉じた。涙は出なかった。昨夜の涙で、たぶん一段階超えたのだろう。
「なんだか……馬鹿みたいですね。愛されてると思って来たのに、台帳の項目でした」
「私もです。妻だと思っていたのに、契約書の第七条でした」
二人で顔を見合わせた。
どちらからともなく、笑った。可笑しくて笑ったのではない。笑わないとやっていられなかっただけだ。
「カミラ様」
「はい」
「あの方は——」
ナディアさんが窓の外を見た。書斎の向こうに、ヴェルナーの寝室の灯りが見える。たぶん今夜も一人で、交易の書類を読んでいるのだろう。
「あの方は、どちらの味方でもないんですね」
そうですね、と答えた。
あの人は、どちらの味方でもない。どちらの敵でもない。そもそも、私たちのことを人間だと思っていない。港と交易路の付属品だと思っている。悪意ではなく、本気で。
それが一番つらいということを、この部屋にいる二人だけが分かっている。
「ナディアさん」
「はい」
「明日も帳簿を一緒に見ましょう。もう少し調べたいことがあります」
「……はい」
「それから、もう一つ」
「なんですか?」
「もう少し甘いお菓子を仕入れましょう。こういう話をする夜には、甘いものが要ります」
ナディアさんが泣き笑いのような顔をした。
「カミラ様、そういうところ、すごく好きです」
——好き、と言われた。
それだけのことで、胸の奥の冷えたところが、ほんの少しだけ温かくなった。
ヴェルナーには三年間で一度も言われなかった言葉を、この子は一週間で言ってくれた。
帳簿を閉じて、茶葉を取り出した。今夜はもう少しだけ、一緒にいたかった。




