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仲良くしろと言われた愛人と、本当に仲良くなりました  作者: 九葉(くずは)


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2/10

第2話 毒は入れておりませんので

 翌朝、食堂に二人分の朝食が用意されていた。


 昨夜のうちに料理長に伝えておいたのだ。特に理由は言わなかった。料理長も聞かなかった。この屋敷の使用人たちは優秀だ。余計なことを聞かず、必要なことだけをする。


 ——それは私が三年かけて作り上げた環境なのだけれど、ヴェルナーはたぶん「最初からそうだった」と思っている。


 向かいの席に、ナディアさんはまだ来ない。


 パンを一切れかじりながら待つ。五分経っても来ない。十分経っても来ない。仕方がない、食堂で一人は慣れている。


 そう思って立ち上がりかけたとき、食堂の入り口にナディアさんが現れた。


 昨夜と同じドレスを着ている。着替えがないのだ。荷物をほとんど持ってきていない。急に連れてこられたのだろう。


「おはようございます」


「お、おはようございます……あの、ここに来てもよかったのでしょうか」


「朝食を用意してあります。座ってください」


 ナディアさんは昨日と同じように恐る恐る椅子に座った。パンとスープと果物の皿を見つめて、動かない。


「お口に合わないものがありましたか?」


「いいえ、あの……奥様と同じ食卓で食事をしていいのか、分からなくて」


 ——この子は律儀だ。自分の立場をきちんと分かっている。分かっているからこそ、何をしていいか分からないのだろう。


「いいも悪いも、仲良くしろと言われておりますので。まずは一緒にごはんを食べるところからではないですか」


 ナディアさんが少しだけ目を丸くして、それからおずおずとスプーンを手に取った。



  ◇



 朝食の後、私はいつも通り書斎で帳簿を開いた。


 港に入る船の予定、荷揚げの人員手配、先週の取引の精算。毎朝これをやらないと、港が回らない。ヴェルナーは「港のことは任せる」と言ったきり、帳簿を見たことがない。任せるというのは便利な言葉だ。丸投げとも言う。


 帳簿を二冊片付けたところで、書斎の扉が小さく叩かれた。


「……あの、カミラ様」


 ナディアさんだった。廊下に立って、中に入っていいのか迷っている。


「どうぞ」


「す、すみません。私、何をしていればいいのか分からなくて……お邪魔でなければ、ここにいてもいいですか」


 居場所がないのだ。この広い屋敷の中で、自分がどこにいればいいか分からない。


 分かる。私も最初の半年はそうだった。


「では、お茶を淹れましょうか」


 棚から茶葉を出して、二人分のお茶を用意した。書斎にティーセットがあるのは、私がここで一人で仕事をする時間が長いからだ。来客用ではなく自分用。


 カップをナディアさんの前に置いた。


 ナディアさんはカップを見つめたまま、手をつけない。


 ——ああ。


「まさか、毒を疑っていますか」


 ナディアさんがびくりと顔を上げた。図星らしい。分かりやすい子だ。


「入れておりませんので、ご安心ください」


「い、いえ、そんなつもりでは——」


「もし入れるなら、こんな安い茶葉には入れません。せめて祝祭用の一番良いやつに入れます。毒がもったいないので」


 ナディアさんが、ぽかんとした。


 それから、小さく吹き出した。


 口元を手で押さえて、申し訳なさそうに、でも確かに笑った。


「……すみません、笑ってしまって」


「いいえ。笑ってもらえてよかったです。安い茶葉は安い茶葉ですが、味は悪くないので」


 ナディアさんがようやくカップを手に取って、一口飲んだ。「美味しいです」と言った。その声に嘘がなかったので、私は少しだけ気分がよくなった。


 ——不思議なものだ。この屋敷で「美味しい」と言ってもらえたのは、たぶん初めてだ。ヴェルナーは食事の感想を言わない。使用人たちは立場上言えない。


 たった一言が、こんなに嬉しいものだったとは。



  ◇



 昼前に、ヴェルナーが書斎に顔を出した。


 ナディアさんと私が並んでお茶を飲んでいるのを見て、満足そうに頷く。


「うまくやっているようだな。ナディア、せっかくだから妻に港の仕事を教えてもらうといい。暇を持て余すよりいいだろう」


 そう言って、また出ていった。


 ——この人は私を何だと思っているのだろう。


 愛人の世話をさせて、そのうえ仕事まで教えろと言う。教育係ですか。託児所ですか。私はあなたの妻のはずですが。


 顔には出さなかった。出す意味がない。怒ったところでヴェルナーは「なぜ怒っているのか分からない」という顔をするだけだ。三年で学んだ。


「カミラ様、あの……無理にお仕事を教えていただかなくても」


「いいえ、港を見るのは面白いですよ。それに、一人で行くより二人の方が荷運びの確認が楽ですから。行きましょう」


 本音を言えば、断る理由がなかった。


 ナディアさんに仕事を教えたくないわけではない。この子が暇を持て余して塞ぎ込む方が、同じ屋敷に住む身としては困る。それに——正直に言えば、誰かと一緒に港を歩くのが嫌ではなかった。


 三年間、ずっと一人だったから。



  ◇



 港は今日も賑わっていた。


 商船が三隻入港しており、荷揚げの作業員たちが声を上げている。潮の匂い、木箱のきしむ音、船乗りたちの怒鳴り声。私がこの屋敷で唯一好きな場所が、この港だ。


 ナディアさんを連れて埠頭を歩きながら、基本的な仕組みを教えた。入港の届け出、荷揚げの手配、関税の計算、取引先への引き渡し。ナディアさんは熱心に聞いて、時々質問する。質問が的確だった。


「ナディアさん、交易のことに詳しいんですね」


「あ……お父様の仕事を、少し手伝っていたので」


 ホルツマン家は内陸の交易路を扱う家だ。物の流れを理解する下地がある。覚えが良いのは、才能だろう。


 ——ヴェルナーがこの子を連れてきた理由の一端が見えた気がした。ホルツマン家の交易路。なるほど。


 その思考は、港に新しい船が入ってきたことで中断された。


 ギルドの紋章を掲げた大型商船。見覚えがある。王都の商人ギルドの船だ。


 船から降りてきたのは、三十歳くらいの男性だった。仕立ての良い外套を着ているが、貴族の華美さはない。商人の実務的な装いだ。


「辺境伯領の港湾管理をされている方ですか」


「ええ。辺境伯夫人のカミラです」


「商人ギルド本部のレオン・ケスラーです。今期の香辛料取引について、お話をさせていただきたい」


 取引交渉。これは私の仕事だ。ヴェルナーは大筋だけ決めて、実務は全て私に投げている。


 レオンさんと港の事務所で三十分ほど話した。ナディアさんは隅で静かに聞いていた。


 交渉は順調に進んだ。相場の確認、輸送経路の選定、関税の按分。レオンさんはこちらの提案に対して、的確に条件を返してくる。話が早い。


 一通りまとまったところで、レオンさんが少し首をかしげた。


「失礼ですが——辺境伯ご自身とではなく、あなたと交渉した方が話が早いのでは」


「ええ、おそらく」


 即答したら、レオンさんが一瞬だけ目を見開いて、それからふっと笑った。


「正直な方だ」


「嘘をつくと帳簿が合わなくなりますので」


 これは本心だった。三年間、帳簿と港に対してだけは正直でいた。夫に対してはとっくに本心を隠しているのに。


 レオンさんが帰った後、ナディアさんが小さな声で言った。


「カミラ様、すごいです。あの方、かなりやり手の商人だと思うのですが、対等にお話しされていて……」


「仕事ですから」


「でも、ヴェルナー様はあの交渉をカミラ様に任せているのですよね。……もったいない」


 もったいない、という言葉の意味が分からなくて聞き返した。


「交渉が、ですか?」


「いいえ。カミラ様のことを、ヴェルナー様が分かっていないのが、です」


 ——この子は、五歳年下なのに、夫より先に気づくのか。


 何も言えなかった。ただ、港の風が少しだけ冷たかった。



  ◇



 夜。


 帳簿を片付けて部屋に戻ると、廊下の向こうからノックが聞こえた。


「カミラ様……起きていらっしゃいますか」


 ナディアさんだった。寝間着姿で、ランプを手にしている。眠れないのだろう。


「どうぞ、入ってください」


 ナディアさんは部屋に入ると、窓辺の椅子に座って、膝の上で手を組んだ。何か言いたいのに言えない、という顔。朝の毒の時と同じだ。


「聞きにくいことなら、聞かなくてもいいですよ」


「……あの、ヴェルナー様は、今夜もカミラ様のお部屋にはいらっしゃらないのですか」


 窓の外を見た。港の灯が昨日と同じように揺れている。


「ええ。三年間、ほとんどいらしたことはありませんよ」


 ナディアさんが息を呑む音が聞こえた。


 ——この反応。ということは。


「ナディアさん」


「……はい」


「あの人は、あなたの部屋にも来ていないのでは?」


 沈黙が落ちた。長い沈黙。


 やがて、ナディアさんが小さく頷いた。


「……来ません。一度も」


 一度も。


 愛人として連れてこられた女性の部屋に、一度も行かない男。妻の部屋にも三年間ほとんど行かない男。


 では、この人は誰のために二人をここに置いているのか。


 答えはもう分かっている。分かっていて、口にするのが怖い。


 ナディアさんの目に涙が浮かんでいた。悲しみともう一つ、何かが混じった涙。


 あ、と思った。分かる。私にはその涙が分かる。


 あれは——「自分だけが愛されていないのではない」と知ったときの、安堵の涙だ。


 最低な安堵だ。こんなことで安心するなんて。でも、分かってしまう。私も同じだから。


「ナディアさん」


「はい」


「明日の朝も、一緒に朝食を食べましょう」


 ナディアさんが涙を拭いて、頷いた。


「……はい」


 たったそれだけの約束だ。明日の朝、一緒にごはんを食べる。それだけ。


 でも、この屋敷で「明日また会いましょう」と誰かに言ったのは、三年で初めてだった。


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