第2話 毒は入れておりませんので
翌朝、食堂に二人分の朝食が用意されていた。
昨夜のうちに料理長に伝えておいたのだ。特に理由は言わなかった。料理長も聞かなかった。この屋敷の使用人たちは優秀だ。余計なことを聞かず、必要なことだけをする。
——それは私が三年かけて作り上げた環境なのだけれど、ヴェルナーはたぶん「最初からそうだった」と思っている。
向かいの席に、ナディアさんはまだ来ない。
パンを一切れかじりながら待つ。五分経っても来ない。十分経っても来ない。仕方がない、食堂で一人は慣れている。
そう思って立ち上がりかけたとき、食堂の入り口にナディアさんが現れた。
昨夜と同じドレスを着ている。着替えがないのだ。荷物をほとんど持ってきていない。急に連れてこられたのだろう。
「おはようございます」
「お、おはようございます……あの、ここに来てもよかったのでしょうか」
「朝食を用意してあります。座ってください」
ナディアさんは昨日と同じように恐る恐る椅子に座った。パンとスープと果物の皿を見つめて、動かない。
「お口に合わないものがありましたか?」
「いいえ、あの……奥様と同じ食卓で食事をしていいのか、分からなくて」
——この子は律儀だ。自分の立場をきちんと分かっている。分かっているからこそ、何をしていいか分からないのだろう。
「いいも悪いも、仲良くしろと言われておりますので。まずは一緒にごはんを食べるところからではないですか」
ナディアさんが少しだけ目を丸くして、それからおずおずとスプーンを手に取った。
◇
朝食の後、私はいつも通り書斎で帳簿を開いた。
港に入る船の予定、荷揚げの人員手配、先週の取引の精算。毎朝これをやらないと、港が回らない。ヴェルナーは「港のことは任せる」と言ったきり、帳簿を見たことがない。任せるというのは便利な言葉だ。丸投げとも言う。
帳簿を二冊片付けたところで、書斎の扉が小さく叩かれた。
「……あの、カミラ様」
ナディアさんだった。廊下に立って、中に入っていいのか迷っている。
「どうぞ」
「す、すみません。私、何をしていればいいのか分からなくて……お邪魔でなければ、ここにいてもいいですか」
居場所がないのだ。この広い屋敷の中で、自分がどこにいればいいか分からない。
分かる。私も最初の半年はそうだった。
「では、お茶を淹れましょうか」
棚から茶葉を出して、二人分のお茶を用意した。書斎にティーセットがあるのは、私がここで一人で仕事をする時間が長いからだ。来客用ではなく自分用。
カップをナディアさんの前に置いた。
ナディアさんはカップを見つめたまま、手をつけない。
——ああ。
「まさか、毒を疑っていますか」
ナディアさんがびくりと顔を上げた。図星らしい。分かりやすい子だ。
「入れておりませんので、ご安心ください」
「い、いえ、そんなつもりでは——」
「もし入れるなら、こんな安い茶葉には入れません。せめて祝祭用の一番良いやつに入れます。毒がもったいないので」
ナディアさんが、ぽかんとした。
それから、小さく吹き出した。
口元を手で押さえて、申し訳なさそうに、でも確かに笑った。
「……すみません、笑ってしまって」
「いいえ。笑ってもらえてよかったです。安い茶葉は安い茶葉ですが、味は悪くないので」
ナディアさんがようやくカップを手に取って、一口飲んだ。「美味しいです」と言った。その声に嘘がなかったので、私は少しだけ気分がよくなった。
——不思議なものだ。この屋敷で「美味しい」と言ってもらえたのは、たぶん初めてだ。ヴェルナーは食事の感想を言わない。使用人たちは立場上言えない。
たった一言が、こんなに嬉しいものだったとは。
◇
昼前に、ヴェルナーが書斎に顔を出した。
ナディアさんと私が並んでお茶を飲んでいるのを見て、満足そうに頷く。
「うまくやっているようだな。ナディア、せっかくだから妻に港の仕事を教えてもらうといい。暇を持て余すよりいいだろう」
そう言って、また出ていった。
——この人は私を何だと思っているのだろう。
愛人の世話をさせて、そのうえ仕事まで教えろと言う。教育係ですか。託児所ですか。私はあなたの妻のはずですが。
顔には出さなかった。出す意味がない。怒ったところでヴェルナーは「なぜ怒っているのか分からない」という顔をするだけだ。三年で学んだ。
「カミラ様、あの……無理にお仕事を教えていただかなくても」
「いいえ、港を見るのは面白いですよ。それに、一人で行くより二人の方が荷運びの確認が楽ですから。行きましょう」
本音を言えば、断る理由がなかった。
ナディアさんに仕事を教えたくないわけではない。この子が暇を持て余して塞ぎ込む方が、同じ屋敷に住む身としては困る。それに——正直に言えば、誰かと一緒に港を歩くのが嫌ではなかった。
三年間、ずっと一人だったから。
◇
港は今日も賑わっていた。
商船が三隻入港しており、荷揚げの作業員たちが声を上げている。潮の匂い、木箱のきしむ音、船乗りたちの怒鳴り声。私がこの屋敷で唯一好きな場所が、この港だ。
ナディアさんを連れて埠頭を歩きながら、基本的な仕組みを教えた。入港の届け出、荷揚げの手配、関税の計算、取引先への引き渡し。ナディアさんは熱心に聞いて、時々質問する。質問が的確だった。
「ナディアさん、交易のことに詳しいんですね」
「あ……お父様の仕事を、少し手伝っていたので」
ホルツマン家は内陸の交易路を扱う家だ。物の流れを理解する下地がある。覚えが良いのは、才能だろう。
——ヴェルナーがこの子を連れてきた理由の一端が見えた気がした。ホルツマン家の交易路。なるほど。
その思考は、港に新しい船が入ってきたことで中断された。
ギルドの紋章を掲げた大型商船。見覚えがある。王都の商人ギルドの船だ。
船から降りてきたのは、三十歳くらいの男性だった。仕立ての良い外套を着ているが、貴族の華美さはない。商人の実務的な装いだ。
「辺境伯領の港湾管理をされている方ですか」
「ええ。辺境伯夫人のカミラです」
「商人ギルド本部のレオン・ケスラーです。今期の香辛料取引について、お話をさせていただきたい」
取引交渉。これは私の仕事だ。ヴェルナーは大筋だけ決めて、実務は全て私に投げている。
レオンさんと港の事務所で三十分ほど話した。ナディアさんは隅で静かに聞いていた。
交渉は順調に進んだ。相場の確認、輸送経路の選定、関税の按分。レオンさんはこちらの提案に対して、的確に条件を返してくる。話が早い。
一通りまとまったところで、レオンさんが少し首をかしげた。
「失礼ですが——辺境伯ご自身とではなく、あなたと交渉した方が話が早いのでは」
「ええ、おそらく」
即答したら、レオンさんが一瞬だけ目を見開いて、それからふっと笑った。
「正直な方だ」
「嘘をつくと帳簿が合わなくなりますので」
これは本心だった。三年間、帳簿と港に対してだけは正直でいた。夫に対してはとっくに本心を隠しているのに。
レオンさんが帰った後、ナディアさんが小さな声で言った。
「カミラ様、すごいです。あの方、かなりやり手の商人だと思うのですが、対等にお話しされていて……」
「仕事ですから」
「でも、ヴェルナー様はあの交渉をカミラ様に任せているのですよね。……もったいない」
もったいない、という言葉の意味が分からなくて聞き返した。
「交渉が、ですか?」
「いいえ。カミラ様のことを、ヴェルナー様が分かっていないのが、です」
——この子は、五歳年下なのに、夫より先に気づくのか。
何も言えなかった。ただ、港の風が少しだけ冷たかった。
◇
夜。
帳簿を片付けて部屋に戻ると、廊下の向こうからノックが聞こえた。
「カミラ様……起きていらっしゃいますか」
ナディアさんだった。寝間着姿で、ランプを手にしている。眠れないのだろう。
「どうぞ、入ってください」
ナディアさんは部屋に入ると、窓辺の椅子に座って、膝の上で手を組んだ。何か言いたいのに言えない、という顔。朝の毒の時と同じだ。
「聞きにくいことなら、聞かなくてもいいですよ」
「……あの、ヴェルナー様は、今夜もカミラ様のお部屋にはいらっしゃらないのですか」
窓の外を見た。港の灯が昨日と同じように揺れている。
「ええ。三年間、ほとんどいらしたことはありませんよ」
ナディアさんが息を呑む音が聞こえた。
——この反応。ということは。
「ナディアさん」
「……はい」
「あの人は、あなたの部屋にも来ていないのでは?」
沈黙が落ちた。長い沈黙。
やがて、ナディアさんが小さく頷いた。
「……来ません。一度も」
一度も。
愛人として連れてこられた女性の部屋に、一度も行かない男。妻の部屋にも三年間ほとんど行かない男。
では、この人は誰のために二人をここに置いているのか。
答えはもう分かっている。分かっていて、口にするのが怖い。
ナディアさんの目に涙が浮かんでいた。悲しみともう一つ、何かが混じった涙。
あ、と思った。分かる。私にはその涙が分かる。
あれは——「自分だけが愛されていないのではない」と知ったときの、安堵の涙だ。
最低な安堵だ。こんなことで安心するなんて。でも、分かってしまう。私も同じだから。
「ナディアさん」
「はい」
「明日の朝も、一緒に朝食を食べましょう」
ナディアさんが涙を拭いて、頷いた。
「……はい」
たったそれだけの約束だ。明日の朝、一緒にごはんを食べる。それだけ。
でも、この屋敷で「明日また会いましょう」と誰かに言ったのは、三年で初めてだった。




