第1話 仲良くしろと言われましても
結婚三年目の夕食は、だいたい一人だ。
港を見下ろす食堂の窓際に座って、今日届いた白身魚のソテーを切り分ける。味は悪くない。料理長の腕は確かだし、港町だけあって魚は新鮮だ。
ただ、向かいの椅子がずっと空いている。
結婚したばかりの頃は、夫の分も温め直して待っていた。半年で諦めた。一年経つと、そもそも二人分を用意しなくなった。今では料理長も何も言わずに一人前だけ出してくる。
慣れとは恐ろしいもので、この広い食堂で一人きりの夕食に、もう寂しさすら感じない。
——感じない、ということが、たぶん一番まずいのだけれど。
フォークで魚をほぐしていたら、廊下から足音が聞こえた。二人分。一つは聞き慣れた夫の革靴。もう一つは、もっと軽い。
食堂の扉が開いた。
「ああ、ちょうどいい。紹介する」
夫のヴェルナーが入ってきた。
——その後ろに、若い女性を連れて。
明るい栗色の髪を肩まで伸ばした、小柄な女の子だ。二十歳くらいだろうか。俯いていて、顔がよく見えない。ただ、手が震えているのは分かった。
「ナディア・ホルツマンだ。ホルツマン男爵家の令嬢で、事情があってしばらくうちに住む。仲良くしてやってくれ」
ホルツマン。内陸の交易路を押さえている家だ。
ヴェルナーが彼女を「紹介する」と言ったときの口調。名前の後に家名を付けたこと。「事情があって」の一言で説明を打ち切ったこと。ナディアという女性の怯えた目。
——ああ、そういうことですか。
全部わかってしまう自分が嫌になる。
私はフォークを置いた。一拍だけ間を空けて、いつも通りに微笑んだ。
「ええ、承知しました」
ヴェルナーは安心したように頷いた。この人は今、私が「承知しました」と言ったことに安心している。妻に愛人を紹介して、妻が受け入れたことに。
怒ると思わなかったのだろうか。泣くと思わなかったのだろうか。
——思わなかったのだろう。だって、この人は三年間、私が泣いたことにも怒ったことにも気づかなかったのだから。
「じゃあ、俺は書斎にいる。ナディアの部屋は適当に用意してやってくれ」
そう言って、ヴェルナーは食堂を出ていった。
残されたのは、私と、ナディアさんと、一人分の夕食。
◇
ナディアさんは、食堂の入り口に立ったまま動かなかった。
俯いたまま、唇を噛んでいる。何か言いたそうだけれど、言葉が出てこないらしい。当然だと思う。この状況で何を言えばいいかなんて、誰にも分からない。
「座ってください」
向かいの椅子を示すと、ナディアさんはびくりと肩を跳ねさせた。
——怒鳴られると思ったのだろう。正妻に愛人が対面する場面だ。芝居なら食器が飛ぶところかもしれない。
「お食事は済まれましたか?」
「い、いえ……でも、私は」
「料理長に追加をお願いしますね。今日の魚は美味しいですよ」
呼び鈴を鳴らすと、使用人がすぐに来た。追加の食事を頼む。使用人の目が一瞬ナディアさんに向いたけれど、私が普段通りの顔をしていたので、何も聞かずに下がった。
ナディアさんは恐る恐る椅子に座った。背筋を張って、膝の上で手を組んで、まるで裁判にかけられる被告人のような顔をしている。
料理が来ても、手をつけない。
「冷めてしまいますよ」
「……あの、奥様は、お怒りでは……」
「怒っていますよ」
正直に言った。ナディアさんが青ざめる。
「——ただし、あなたにではありません」
ナディアさんが、ゆっくり顔を上げた。
「あなたに怒っても意味がないでしょう。決めたのはあの人です」
私はそう言って、自分の皿に残った魚の最後のひと切れを口に運んだ。味がしなかった。さっきまでは美味しかったのに。
——ああ、感じないと思っていたのは嘘だ。ちゃんと傷ついている。味が分からなくなるくらいには。
◇
客間の寝具を替えて、ナディアさんの部屋を用意した。
タオルを棚に入れ、窓の鍵を確認し、水差しを置く。三年間やってきた来客対応の手順をなぞる。来客対応。夫の愛人に来客対応をしている自分がおかしくて、少しだけ口の端が歪んだ。笑ったのか泣いたのか、自分でも分からなかった。
「何かあったら、廊下の突き当たりが私の部屋です。遠慮なくどうぞ」
「……ありがとう、ございます」
「では、おやすみなさい」
踵を返そうとしたとき、背中にナディアさんの声がかかった。
「あの——」
振り返ると、ナディアさんがドレスの裾をぎゅっと握りしめていた。顔を上げて、まっすぐ私を見ている。目が赤い。食堂でずっと堪えていたのだろう。
「ごめんなさい」
小さな声だった。でも、震えてはいなかった。
この子は、自分がここにいることの意味を分かっている。分かった上で、私に謝っている。命じられて来たのだとしても、自分の立場がどういうものか理解している。
——それだけで、少なくともあの人よりは誠実だと思った。
「謝らなければならないのは、あなたではないでしょう」
私はそう言って、微笑んだ。今度の微笑みは、ヴェルナーに向けたものとは少しだけ違った。何が違ったのか、自分でもまだ分からないけれど。
部屋に戻って、扉を閉めて、寝台に腰を下ろした。
夫が愛人を連れてきた夜に、最初に考えたのは「客間のシーツを替えなければ」だった。
次に考えたのは「明日の入港予定を確認しなければ」だった。
泣くことは、三番目にも出てこなかった。
三年かけて、私はここまで自分を殺したのか。
——それとも、殺さなければ生きていけなかっただけなのか。
窓の外で、港の灯が揺れている。明日も船は来る。帳簿を付けて、荷揚げの手配をして、ヴェルナーの代わりに商人と挨拶を交わす。いつも通り。何も変わらない。
ただ、屋敷の中に、もう一人増えただけ。
——もう一人。
あの子の「ごめんなさい」が、まだ耳に残っている。あの声には、演技の匂いがなかった。本気で、申し訳ないと思っている声だった。
夫にはない種類の誠実さだ。
それが嬉しかったのか悲しかったのか、私にはもう分からない。
分からないまま、灯りを消した。
明日もきっと、一人分の朝食が出てくる。
——いや。明日からは、二人分にしてもらおうか。
その考えが浮かんだとき、自分でも少し驚いた。
なぜだろう。あの子と一緒に食べた方がいいと、なぜか思ったのだ。
理由は分からない。でも、一人よりはましだろう。
一人よりは。




