09 波が攫ったもの
地面に転がっているのは、人影だった。
そこで太った人が眠っているのかと、日向は錯覚する。
だが、違った。
太っているのではなく――水で皮膚が膨張し、腐敗して横たわっているのだ。
まだそうやって人の形を保っているだけ、マシだった。
辺りにはパーツだけが転がっていたり、蛆虫が大量に湧いていたりと、見知った土地が地獄絵図と化している。
原型をほとんど留めていないが、老人が多いように見えた。
「うゔっ……」
認識した途端、喉元にまで不快なものが込み上げて来る。
何とか飲み込んだが、息が苦しい。
日向はそのまま泣いてしまった。
「……見たのか?」
死体の山を避け、バイクを止めて旭は彼女を振り返る。
「はい……ごめんなさい……」
忠告を聞かずに甘く考え、見てしまったことは事実だ。
こくりと頷き、日向は震える声で言った。
旭の顔を見ることができない。
自分がいかにひどい人間なのかを、思い知らされたからだ。
人が流されたと漠然と知っていても、何とも思わなかった。
薄らと人間を嫌っていたから。
でも、この人たちは確かに生きていた。
日向がシンシアを想うように、希望を持って――。
知った後に、ようやくそれが後悔として押し寄せる。
「謝らなくていい。こんな光景は、見るだけで辛いだろうから」
旭自身もおろおろして、日向をどうにか落ち着かせようとしていた。
こんなことをした相手を許すわけにはいかないが、まだ情の狭間で揺れてしまっている。
彼はただ、バイクを止めたままひたすら手を合わせた。
「酷い匂いだなぁ。ま、夏にやった方が早く土の糧になるから、合理的と言えばそうだよね。そっかそっか。日向ちゃんは死体に慣れてないのか」
同様に止まったヤハンは、心配するように言ったものの、声は上ずっていて楽しそうだ。
ただ淡々と状況を俯瞰して見ていて、日向の苦しみに寄り添う気もない。
「こんなの、酷い……選別なんて、間違ってる……この人たちに罪はないですよね? ねぇ、旭さん……何で、死ななきゃならなかったの……?」
冷静でいられなくなった日向は、泣きつくように旭にぶつけた。
彼を責めているわけではなく、執行者の身内である彼に、その真意を問おうとしたのだ。
旭は瞳を揺らして、一瞬だけ唇を結ぶ。
彼女にすら、拒絶された気がしたからだった。
「俺にも、分からないんだ。あの子が何を考えていたのか……深いところまでは、理解できなかった」
旭も同じような疑問を持っていたから、答えようがなかった。
選別だと言いながら、罪のない人まで大量に死んでいる。
ここはまだいい方だ。
都市部はもう海に沈んでいて、そこに住んでいた多くの人たちはもう、存在しないのだから。
震える旭を見て、日向は冷静さを取り戻す。
「ごめんなさい、旭さんを責めてるわけじゃなくて……」
「分かっている。気にしなくていい」
身内がこんなことをしたのだから、旭が誰よりも辛いはずだ。
他人の気持ちを優先しなかったのに、いつしか日向は彼の挙動を見守っていた。
そんな二人をよそに、ヤハンはボリボリと乾パンを貪り始める。
腐乱臭に塗れた死体の山の中でも、彼には関係ないようだ。
「うーん、腐った奴らを排除するのは、とってもいいことだよね!」
死者を悼む二人とは真逆で、それすら無意味と言わんばかりだった。
「まぁ、文明レベルは落ちるよね。生きていくだけで苦しくなる人たちもいる……だから、人思いに殺してあげたんじゃない? ほら、サムライがやる介錯ってやつさ」
けろっとした顔で、笑いながら語るヤハン。
日向や旭からすれば相容れない思想だったが、彼はうんうんと頷きながら水を飲んだ。
「無理……あんた、ほんとに無理」
同担のよしみで我慢していた日向だが、あまりに異常者のようなヤハンをついに拒絶してしまう。
「あはは、そっか。無理でもいいよ。思想はどうであれ、僕らの役割は同じだしね。早く行こうよ。八咫烏を駆逐する前に、シンシアちゃんに会いたいし」
明確な否定を受けてもなお、ヤハンはへらへらと笑って乾パンを食べている。
彼には感情をぶつけても、何も効かないようだ。
だからこそ、エージェントとしての仕事をこなせる人間なのだと――日向は割り切ることにして、涙を拭った。
(ムカつくけど、私もあいつと同じ……関心はなかった。それに、シンシアちゃんに会いたい。聞いてもらいたい……すごく酷い状況なんだって)
脈が速くなるのを感じて、日向は落ち着くようにぬいぐるみを抱きしめた。
シンシアと画面越しに話したことを思い出す。
彼女は最後の配信で、近いうちに大きな災害があることを予測していたのは確かだ。
(シンシアちゃんは、この崩壊を予知してたよね……占い師だからかな。きっとあの配信で、多くの人を救ってるのよ。私だって、少し備えてたし……他にもそういう人はいると思うし)
今になってはどれだけの視聴者を抱えていたかは覚えていないが、シンシアはとても優しい女の子だ。
日向は推しを拠り所に抱きしめて、崩れそうな心を支えた。
「旭さん、星霜山に行きましょう。私もシンシアちゃんに会いたいです……」
気丈に笑い、バイクの傍で茫然と立ち尽くす旭を見上げる。
彼はシンシアのぬいぐるみをじっと見ていたのだが、日向に言われて我に返ったようだ。
「そうだな。君は……その後、どうするんだ?」
これまでは後のことを聞こうとしなかったのに、旭は静かに日向を見た。
「シンシアちゃんと一緒に過ごしたいかも……旭さんも、きっと好きになりますよ。とっても優しくて、可愛い声をした女の子なんですから」
今の日向は何も考えられず、ただ最初のように、虚構の笑顔で推しのことを語るのに精一杯だった。
ずっとシンシアと一緒にいる方が、平和ではないかとすら考えたのだ。
「あぁ……そうかも知れないな」
旭は何も否定できずに、そのまま星霜山を目指すことにした。
◆◆◆
瀬戸内海側の地域から、今度は北西の山間部の方に進んでいく。
山々が並ぶところは、沿岸部とは打って変わって平和な様子だ。
もし自動車専用道路が崩壊していなければ、山を通っていただろうから――あの惨状には気付けなかっただろう。
そう思うと、日向は身震いした。
選別の本懐を知らないまま、ふわりとした意識で進んでいたのだと思うと――。
道の状態が悪く、バイクを押しながら進むことになったため、山の麓に着いたのは夕刻頃だった。
登山口はバイクも持って行けないくらいの険しい山道なので、麓の駐車場に止めていく。
車は他に止まっていなかった。
「この辺りは涼しいですね」
先ほどの光景が瞼の奥にちらつきながらも、日向は元気に振る舞う。
ぬいぐるみを抱きしめている姿は、幼い少女のようだ。
「あー、なんかいるね」
そんな中――ヤハンは遠くの空を睨み、カバンの中から急に拳銃を取り出した。
「えっ、エアガン……?」
日向はそれが玩具だと思っていたが、旭はすぐに気付いて彼女を守る姿勢に入る。
ヤハンは彼女がどう感じようがお構いなく、容赦なく空に向かってぶっ放した。
「きゃっ……」
雷のような大きな音に、日向はただびくりと体を震わせる。
普通に持っているなんて思わなかったのだ。
銃弾が向かった先は、登山口の森の奥で――木にぶつかったのか、枝がばさりと下に落ちる。
「わぁ、避けられちゃうなんて! 出ておいでよ、そこにいるのは分かってるからさ」
何かの気配に対して、ヤハンは容赦なく撃っているようだ。
気さくに話しかけながらも、声のトーンは落ちている。
妙な色気があり、それがまた日向には恐ろしくてたまらなかった。
しん、と静まり返る。
すると、ヤハンはまた引き金を引いた。
命を奪うことに、躊躇いなんてない。
銃弾は何もないところで転がり落ち、蜃気楼のように景色が揺れる。
日向は幻覚でも見ているのかと目を擦ったが、透明な壁でもあるかのように落ちたのだ。
「ヤハン殿、その辺にしておけ」
「えー?」
旭が止めると、その透明な壁のような部分がまた揺らぎ――何もなかった景色から男が姿を現した。
それは少し前に出会い、日向も見覚えがある人だ。
「やっと見つけたと思ったら……誰だよ、そいつ」
嵐だった。
旭たちを見つけて近くに行ったものの、ヤハンを警戒して隠れていたのだ。
「荒木さん……」
嵐に敵意はないように感じ、日向は少し肩の力を落として名前を呼ぶ。
あの日、呪いを解いたのは一時的だと思われたが、まだ効いているようだった。
「へぇ、八咫烏か」
ヤハンの瞳が冷える。
捕食対象を見た、狩猟動物のように。
すぐに戦いになりそうな雰囲気だったために、旭が仕方なく間に入る。
「待ってくれ、ヤハン殿。俺が話をつける」
ぴたりとヤハンは止まった。
何だかんだで旭のことは一目置いているのか、あるいは守っているのか――彼に対しては、他よりも柔らかく接しているように見える。
(旭さんがお気に入りなのかな……ガチで怖い、この人)
旭にだけ年齢を聞いたり、センシティブな質問をしてみたりと、妙に馴れ馴れしい。
それは逆に言うと、サイコパスが人を知ろうとしているようにも見えて――不気味だった。
「嵐殿、呪いは効かなくなったようだな」
旭はそんなヤハンの異常性にも、分かっていながら目を背ける。
そして、嵐と向き合った。
「あの時からな。俺はもう従わねぇよ。その代わり、あいつを探して日月神示を止める」
“あいつ”と言った時の嵐は、少し寂しそうな、複雑な目をしていた。
(旭さんの身内のことかな。荒木さんとも知り合いだったんだね)
その関係が友達なのか、どんなものなのかは計り知れないが、日向は胸を痛める。
親しい人があんな凄惨なことをしたと思うと、彼らはきっと苦しいはずだ。
「そうか。彼はヤハン・モリヤ。他国のエージェントだ。目的は、八咫烏にツクヨミの力が渡るのを防ぐことだと……俺たちとも利害は一致する」
手で指して紹介する旭だが、事実を述べただけでも怪しさ満点だ。
嵐は顔を顰めるしかなかった。
「そんなわけねぇ……とも言えねぇのが癪だな。なんか、いけ好かねぇけど」
ため息をつき、睨み合う。
離れたところからじっとヤハンを見て、嵐は否定しきれずくしゃりと髪を掻いた。
ギスギスした雰囲気が漂う。
「初対面なのに酷いなぁ」
「お前が先に撃ってきたんだろ」
「だって、変な気配がしたもん。そう、虫みたいな……弱々しいものかと思ったよ」
「なんだと、この野郎!」
少し話すだけで一触即発と言わんばかりな二人に、ため息をついた旭がまた間に入る。
日向はただ、関わりたくなくて遠目で眺めていた。
「やめておけ。君たちが争ったところで、何も生まれない。今は日月神示を止めるのが先だが……日向との約束を果たしにここに来た」
目的を知らない嵐に向け、旭は事実だけを話す。
確かに旭は日向を名前で呼んだ。
最初は姓で呼んでいたのを知っている嵐は、少し考えてから納得する。
「やっぱ、こういう状況だと男と女ってすぐくっつくのか? あの有栖川旭に、彼女ができたなんてなぁ……」
嵐はからかうようにニヤニヤ笑った。
旭よりも数センチ背が高く、ぽんぽんと肩を叩きながら。
「違いますから! 名前で呼んだだけで付き合ってるとか言われるなんて、荒木さんは恋愛弱者ですねっ!」
ただ日向は腹が立ち、つい顔を真っ青にして叫んでしまう。
まだ旭とはちゃんと友達にもなれていないのに、そんな下衆の勘繰りで関係を崩したくないのだ。
(私なんてパッとしないし、恋人と間違われたら不快なだけじゃん!)
その根底には自己評価の低さがあったのだが、惨めになるだけだから言わなかった。
すると、慌てる嵐をよそに、ヤハンが一人で大笑いし始める。
「そっか、嵐くんは弱者男性なんだね! どうりで雑魚の気配だったはずだよ!」
サイコパスは調子に乗っており、嵐の背中をバンバン叩きながら笑った。
「はぁ? ふざけんな、俺のどこが弱者だよ!?」
「うーん、モテなさそうだし」
「俺はモテる!」
「じゃ、奥さんはいるの?」
「……いねぇけど」
「はい、僕の勝ちー! 僕はシンシアちゃんの夫だからね」
ミニブロマイド入りのスマホケースを取り出し、頬ずりし始めるヤハン。
そうしている時の彼は本気でうっとりとしていて、妄想を心から信じて目を細める。
謎のマウントに嵐も圧倒されており、疑問符が大量に浮かび上がっているかのようだった。
(ここで二次元の嫁を前面に出すとか……さすがに狂人なだけあるね)
これには日向も何かを言う気は失せて、助けを求めるように旭を見上げた。
「……この山の頂上に、日向とヤハン殿の推しがいるらしい」
旭はまた喧嘩している二人を見て、呆れたように口を挟む。
そうすると、嵐はぴたりと止まった。
「推し、か。よく分かんねぇけど、俺も一緒に行くかな」
ヤハンのスマホケースを見て、それから日向のぬいぐるみを見つめる。
嵐はふと切なげな顔をするが、言葉にはしなかった
「邪魔しないでくださいね。シンシアちゃんは、きっとすごく可愛い子なんです。荒木さんは声がでかくて煩いですから、喧嘩したら出禁にしますからね」
「何で俺だけ出禁なんだよ?」
「だって、モリヤさんは一応ファンですし。曲がりなりにも、そこは弁えるはずです……たぶん」
ようやく推しに会えると感じた日向は、ぬいぐるみを抱っこしたまま登山口に向かっていく。
浮足立っていて、翼が生えたかのようだった。
「わーい、僕も楽しみにしてたんだ! ペンラとうちわ持ってきたよー!」
なぜか一緒になってはしゃいでいるヤハンは、それについて行った。
ペンライトと文字を象ったうちわまで用意していて、いつもどおり笑いながら走っていく。
「なぁ、あのシンシアって……」
二人が先に行った後、嵐は旭に何かを確認するように見た。
「……それを確かめに行くんだ」
旭も多くは語らなかったが、それだけ答えて前に進んだ。




