10 山頂の子守唄
星霜山の登山口は狭く、二人並んで歩くのがやっとな道幅だ。
「あー! 待ってください!」
山を登る前に、日向は木のベンチに腰掛けた。
リュックを下ろし、中からいそいそとポーチを取り出す。
「何してんだ?」
嵐が問いかけるよりも早く、彼女はポーチの中から鏡やメイク道具を取り出し始める。
男たちは呆れるように固まった。
終末なのに、こんなところで化粧をするのかと――。
「推しに会うんですよ。ノーメイクで行くのは失礼ですもん。少しお待ちを!」
汗をかくのは承知だ。
今は夏だから、ちょうど汗で落ちにくい下地やファンデーションを持ってきている。
それらを塗りながら、見られてもお構いなしで顔面工事を始めた。
「お前の顔とか、どっちでもよくねぇ?」
最初に呆れた声を出したのは、嵐だった。
ここでメイクをし始める理由が本気で分からず、彼は首を傾げる。
「本人の自由にすればいいと思うが……」
旭はそう言いながらも、日向がどうしてそんなことをしたいのかはよく分かっていない。
「もう、分からなければいいんですよ。こればかりは、モリヤさんなら理解してくれると思いますけどね」
非オタな二人には理解を求められないが、こういう時のオタク仲間は信用できるものだ。
マスカラでまつ毛を伸ばしながら、日向は味方をつけるように話を振った。
「別に、君の顔は誰も見ないと思うけどね」
だが、梯子を外されてしまう。
これにより、三対一の勝負となってしまった。
(あー、ムカつく! このサイコ野郎!)
それでも日向は信念を曲げず、フルメイクを完成させる。
髪も軽くといて整えるが、さすがに複雑なアレンジはできなかった。
「よし、これで行きます」
三十分ほど男性陣を待たせ、旅は再開する。
旭はそんな彼女の顔を、しばらく見つめていた。
「はぁ、特に変わってなくね? 待たせてこれかよ」
嵐は殴られないように距離を取りながら日向を見て、ジト目で毒づいた。
彼にとっては特に代わり映えもしなかったのだ。
「ま、どっちでもいいじゃん。シンシアちゃん、待っててね!」
ヤハンの方は相変わらずで、自分の欲望に忠実だった。
日向に目もくれず、これから推しに会うことしか考えていない。
「貴方たちに見せるわけじゃないですからね!」
そんな二人に苛立っていた日向は、旭の視線に気付かないままで睨んだ。
いよいよ登山――これから、夢にまで見たシンシアに会う。
それを思えば、男たちなんて視界にすら入らない。
登山口に誰よりも早く足を踏み入れた瞬間、日向はどこか肌に染み渡るような心地よさを覚える。
それは異能者である旭や嵐もそうで、ヤハンは気付いていないのか笑っているばかりだった。
「なんだか、空気が澄んでるような……気のせいでしょうか」
日向はヤハンを拒絶したり苛立ったりしながらも、無視しているわけではない。
隣にいたのもあり、仕方なく彼に話しかけたのだ。
「そう? きっと、ここにシンシアちゃんがいるからだね! 早く会いたいなぁ」
旭いわく、ヤハンは異能的な力がほぼないという。
日向ですら感じ取れる空気にも無反応で、ただ推しを崇めてスキップしていた。
「この山は神聖な場所だぜ。お前の力は閉じてるとは言え、アマテラスだ。感じるもんもあるんだろ」
後ろから旭と共に追いついてきた嵐が、山を眺めながら静かに言った。
「あの人はゼロ感男ってことです?」
日向は少し先の方を行くヤハンを指さす。
はしゃいでいて、まるで遠足気分だ。
ここにも猫たちの姿が多く見られ、ニャーニャーと鳴きながら彼に纏わりついていっていた。
「あいつからは何も感じないな……暗殺者が気配を消してるようなもんだと思うぜ。ちょっとやり合ったが、身体能力は普通の人間じゃねぇ」
「え、じゃあ、異能者とか? あんなサイコパスに異能を持たせたら、それこそ怖いんですけど!」
「異能があれば、それを使うと思うけどな。あのイヤーな性格だしよ。笑いながら人を殺してそうだ」
「荒木さん、分析が的確ですね」
嵐は見ていないし軽口として言っているが、日向は体が覚えている。
実際にヤハンは人を殺す時も、拒絶されても、死体を見ても笑っていた。
それでも目はどこか冷えていて、推しのことを語る時だけは本当に優しそうな顔をする。
どこまでも読めない男で、思い出すだけで身震いした。
「そんで、あいつもシンシアってのが好きなんだな。そんな流行ってたのかよ?」
合流したばかりの嵐は、ヤハンに対して不信感を隠さずにじっと睨んだ。
夕暮れの光を木々の隙間から浴びながら、ヤハンを先頭にして歩いて行く。
シンシアの文字を象ったうちわのラメが、自然の中で不自然にキラキラと光っていた。
「バーチャルアイドルの中では、そこまでじゃないと思います……でも、私みたいにコアなファンはいますよ! シンシアちゃんはデビューしてから、まだ一年くらいなので!」
普段から日向は周りの人とそんな話をすることがなかったから、ここぞとばかりに布教しようとする。
少し考えた嵐は、スマホのような端末を取り出した。
「それは……八咫烏の特殊通信機か」
旭がその端末に反応する。
彼も似たようなものは持っているが、衛星写真を見る以外のことはできない機械だ。
「あぁ、ここに来る前に持ち出してきた。国内のネットは死んでるが、これなら過去ログを漁れるぜ。シンシアについて調べてみるか」
特殊な回線で繋がれた端末に、シンシアの情報を入力していく嵐。
「えー! お願いします!」
日向はそれに目を輝かせた。
オフラインに残しているから、動画は自分のスマホでも見れるのだが、日々の投稿などのスクショまでは撮っていない。
SNSには何気ないイラストも投稿していたはずだから、それが見たかったのだ。
ページは無事に開き、シンシアのアカウントが表示される。
「きゃー! シンシアちゃんだ!」
日向が作ったぬいぐるみそのものの容姿に、思わず早口で声を上げてしまった。
まるで、昼間見た凄惨な光景すら、その時だけは記憶の彼方に飛ばしてしまうかのように。
「ふーん、二千フォロワーか。これって多いのか少ないのか、分かんねぇや」
嵐がフォロワー欄を見ようとした時、光のような速さでヤハンがやってくる。
「本当だ! シンシアちゃんのアカウントだね、可愛いねぇ!」
油断していた嵐から勝手に奪い取ると、画面を独り占めしてしまった。
日向もそれが見たかったので、負けじと横から覗き込む。
この時のヤハンはサイコパスというより、ただの恋する青年のようだった。
「うわ、取られたし……何だあいつ」
不快そうに眉を寄せる嵐だが、今は日向ですらヤハンを咎めない。
仕方なくため息をつき、後方で見守った。
「私、シンシアちゃんの初投稿の時に偶然見つけて……そこからハマったんです。だから、私がファン歴としては先輩に決まってますよ」
どの投稿を遡っても覚えているし、何なら最初から見ていたものだ。
日向はヤハンに対抗するように、得意げな顔をする。
「えー、僕だって最初から知ってたよ!」
「でも、時間は私の方が先だと思います!」
「まぁ、そこは譲るよ。もしそうだとしても、君は女の子だからね。シンシアちゃんと結婚できるのは僕だし」
「痛ファンじゃないですか。ガチ恋も、拗らせたら迷惑なだけですよーだ」
低レベルな言い合いをしながら、嵐の端末を奪ったまま二人は歩いて行く。
「だから、それ俺のだって!」
嵐が大声を出すも、推しのことについて張り合う二人には届かない。
旭はそれを少し微笑ましげに見て、嵐を振り向いた。
「追跡や盗聴はされないのか?」
「盗聴機能はなかったみたいだ。GPSが仕込まれてたから抜いてきた。ついでに、俺の皮膚に埋め込まれてたやつもな」
袖を捲って腕を見せた嵐は、塗ったような傷口を見せる。
自我が出せるようになり、旭たちと別れた後、追跡防止のために対策したのだ。
「あの時の八咫烏たちはどうした?」
「あいつらは置いてきたぜ。巻き込んだら可哀想だしよ」
「部下思いだな」
「俺は操られてただけだ」
「その後はどうする気だ? 上層部はまだ残っているだろう。中部地方辺りにでも潜伏して、拠点をそこにしているのでは?」
元八咫烏の二人は、歩調を合わせて推し活勢について行く。
旭の指摘は鋭いもので、嵐は彼を真顔で見下ろした。
八咫烏から自由になれたとは言え、上層部がいる限りはまた邪魔をされるし、ツクヨミの力も狙われたままだ。
「そのうちやる。まずはあいつを止めることから、だろ」
ぽつりと呟くように、嵐は悲しげな目で誰かの話をする。
それまでは軽く振る舞っていたのだが、途端に重苦しく低い声を出した。
「君は……いいのか? ツクヨミが本領発揮しているということは……」
旭は言いかけて、そこで拳を握る。
執行者がツクヨミに何を捧げたのかは理解していても、それを口に出すには至らなかった。
「別に、何だっていい。全部、受け入れてやるから」
ふっと笑い、達観したように嵐は言った。
その瞼の裏に、旭の身内のことを思い浮かべながら――。
端末を奪い取ったまま、ヤハンと日向が先を行く。
二人に猫たちがついていく中、後ろから旭と嵐が続いていた。
日が沈んで辺りが暗くなると、大きくて明るい満月が顔を出す。
もうすぐ頂上に差し掛かる頃だ。
暗い道はヤハンの持っているペンライトで照らしながら、そのまま上へ上へと登っていく。
すると、頂上の方から綺麗な声が聞こえてきた。
「この声……」
立ち止まった嵐が、静かに耳を傾ける。
皆も歩みを止め、その歌声に集中した。
鈴の音のような透き通る声、狂いのない旋律。
西日本由来の子守唄が、女性の声で繰り返し奏でられている。
「シンシアちゃんの歌声です! 生声ですよ! あ、でも、勝手に録音はダメですよね。許可を取って、一緒に撮影はしたいですが……」
テンションが爆上がりし、飛び跳ねるようにして喜んだ日向は、電池が半分くらい残ったスマホを起動する。
興奮して震える手でその声を録音しようとしたものの、痛ファンになりたくなくて踏み止まった。
再び電源を切らなかったのは、頂上でシンシアに出会った時に、記念撮影をしたかったからだ。
「本当に、可愛い声だねぇ」
ヤハンはニコニコしながら歩いていた。
殺しも厭わない男だと思えぬくらい、普通の青年になったかのようだった。
旭と嵐は何も言わず、無言でシンシアのオタクたちについて行く。
「シンシアちゃんに会ったら、まずは何を話しましょう……この旅のこととかもそうですが、まずは出会ってくれたことへの感謝を……!」
「僕はプロポーズしようかなぁ」
「は? 痛すぎるんですけど! イケメンでも事案ですよ。やめてください!」
「あはは、ごめんごめん」
二人はこの先の彼女との邂逅に思いを馳せ、もう有頂天だ。
(このサイコ野郎がシンシアちゃんを傷付けないか、監視しとかないとね)
興奮しながらも秩序を守る日向は、一歩一歩を噛み締めるようにして歩く。
表情はこれまでにないくらい輝き、一点の曇りもない。
猫寺からこの星霜山なんて、日常なら二時間ほどで行けたはずだ。
それを数日かけて進み、色んな出会いがあった。
二十二年の人生の中の、たった数日。
この数日は凝縮されていて、これまでのどんな日々よりも濃厚だった気がする。
今はただ、そうやって現実から目を背けていた。
子守唄がどんどん近づいてくる。
ヤハンはタブレットをようやく嵐に返した。
それから日向と彼は我先にと争うように、山の頂に到着する。
頂上から大きな満月が一望できる場所。
歌は止まる。
月を背にするように、山の由来などが書かれた石碑が並んでいて――その傍にある平たい岩の上に、一人の少女が腰掛けていた。
「し、シンシアちゃん……」
あまりの神々しさに、涙を浮かべてしまう日向。
かっこよく呼びたかったのに、彼女の名前を呼ぶだけで喉が詰まってしまう。
「貴女が、日向ちゃんね。こんなに可愛い子だったなんて」
そよ風に、姫カットにした少女の横髪が揺れる。
何も言っていないのに、彼女は日向の名前を呼んだのだ。
月の逆光に照らされた彼女は、絶世の美少女だと言って過言ではない。
和服を着ていて、長いストールのような羽織で肩から下を覆っていた。
この場所だけ時が止まったかのようで、季節すらも凌駕した涼しい空気が漂っている。
(あれだけうるさかったくせに、いざ目にしたら黙ってやんの。シンシアちゃんは、私を呼んでくれたのよ!)
ふと隣りにいるヤハンを見ると、彼は推しを見つめて佇んでいるだけだった。
名前を呼んでもらったのも、容姿を褒められたのも、日向だけだ。
「は、はい、シンシアちゃん……」
少しばかり優越感に浸りながら、日向は一人でゆっくりとシンシアに近付いていく。
月が明るいから、近づいたら顔がはっきりと見えてきた。
美しさに卒倒しそうだ。
(むりむりむり……可愛すぎ! えっ、バーチャルアイドルじゃなくても、普通に芸能人目指せるレベルじゃん!)
脳内の語彙力もなくなり、顔を真っ赤にして見つめてしまう。
「よく来てくれたわね」
この世のものとは思えぬほど美しい少女は、慈悲深い微笑みを向ける。
彼女が笑うだけで、日向の心臓は跳ねた。
瞳はアバターと同じく赤い。
どこか見たことがあるような顔をしていて――日向は急に現実に引き戻された。
(誰かに、似てる。いや、“誰か”じゃなくて……)
彼女が誰に似ているか、すぐに分かってしまう。
「嘘、でしょ……?」
脳が理解するのを拒否するように、日向はその場に膝から崩れ落ちた。




