11 不幸なんかじゃない
膝をついた日向を、近くにいたヤハンが一応支えようとはしていた。
それよりも早く、後ろに控えていた旭が颯爽とやってきて支える。
嵐は後ろで立ち尽くして、ただその少女を見つめていた。
「お兄様」
日向が大好きな声は、同じ赤い目をした青年を呼んだ。
旭の身内――日月神示の執行者。
認めたくはなくても、点と点は完全に繋がってしまう。
念願のシンシアと出会ったのに、日向はその顔をうまく見られなくなった。
彼女そっくりのぬいぐるみを抱きしめ、ただ震えた。
「久し振りね。言ったとおり会いに来てくれて、とても嬉しいわ」
被災地の惨状などなかったかのように、彼女は極上の微笑みを見せる。
その足元には、住み着いた猫たちがすりすりと頬を寄せていっていた。
「瑠菜……もう、やめてくれ。十分、仕返しは済んだだろう」
ため息混じりに、旭は説得するように言った。
瑠菜――それがきっと、シンシアの本当の名前なのだろう。
どうしてバーチャルアイドルとして活動していたのかは、兄にも分からないのだが。
(嫌だ……私のシンシアちゃんが……)
もう答えは出ているのに、日向は受け入れられず、立ち上がることもままならなかった。
「あら、仕返しだなんて。それだけが目的なら、私を苦しめた人たちはまだ死んでいない。矛盾してしまうわ。そうでしょう、嵐くん」
奥の方で立ち尽くすだけの嵐に、瑠菜は微笑みかける。
聖母のように慈愛たっぷりでありながらも、どこか残酷な微笑みだった。
名前を呼ばれた嵐は、普段の豪快さからは考えられないような態度で、紫色の瞳を揺らす。
その目にじっと映し、渇望するかのように。
「死んでねぇよ。何で罪のない人たちは殺して、あいつらは死んでねぇんだよ!?」
震えながら青ざめているのに、嵐は大声を出した。
瑠菜の微笑みは絶えることなく、彼にの言葉を聞いても何も変わらない。
「これからが本番だもの。世界秩序が崩壊すれば、どうせあの人たちは生きていけないわ。後は苦しんで死ぬだけ。罪がないからこそ、生きていけない人たちは介錯した……それだけよ」
緊迫感そよそよと吹く風に、瑠菜の絹のような髪は揺れる。
それを耳にかけながら、犠牲を語る時は憂いた目をしていた。
肩下から伸びる羽織は大きく、帯は見えない。
寸胴に見られがちな和服姿でも、胸元は豊かで張りがあるのは伝わってくる。
(介錯って……またそんな例えを聞くなんて……)
日向はその言葉がどこかに突き刺さって取れなかったのを、この時になってまた思い出す。
考えないようにしていたが、同じように言っていた男が近くにいるのだ。
ちらりと、その本人を見上げる。
うっとりとした様子で瑠菜を見つめていて、何も言葉を発していない。
口ばかり達者なヤハンは、神にでも会ったかのように恍惚としていた。
「日向ちゃんは、この世界が好きだった?」
嵐が何か言い返そうとする前に、瑠菜は岩に腰掛けたまま、日向を優しく見下ろす。
「ううん……好きじゃなかった。私、最低だね……世界がこんな風になって、もう死に物狂いで働かなくていいって気持ちの方が勝ったの」
否定したくても、否定できなかった。
酷いと思っていても、瑠菜を責める資格はないのだと――日向は吐きそうになる。
泣いていた人たちに寄り添うよりも、死体の数々を見ても、推しに会うことを優先してきた。
非日常を少し楽しんでいた節すらある。
「世界の秩序は、在らざるべき形に傾いた。日向ちゃんのような、漠然とした絶望が増えていたの。私はツクヨミ様と共に、それを元の形に戻そうとしているだけよ」
瑠菜は淡々と、空を見上げて語った。
理解されようともしておらず、無機質な執行者そのものだ。
「だからと言って、ツクヨミに身を捧げたのか? そこまでする価値が、この世界にあったのか? 俺はただ、瑠菜がいつか八咫烏から解放され、幸せになればそれで……」
いつも冷静な旭の声は、一発で分かるくらいに震えていた。
妹と対話を重ねても、もう変えられないのだと彼は気付いている。
日向を支える手も、覚束ないほどに。
(旭さん……瑠菜さんのやったことは罪だと認めながらも、本心は同じだったんだね)
そんな彼の様子を見ていて、日向は少し肩の力を抜いた。
ただ理性的なだけの男ではなく、旭自身にも本音と建前があったのだと。
でなければ、世界に価値があるのかという問いかけなどしない。
自分自身と重ね、日向はぐっと奥歯を噛み締めた。
「お兄様、何か勘違いをしていないかしら」
「勘違い、だと……?」
「あのまま八咫烏にいても、私たちはどちらも幸せになれなかったわ。それを知っていたから、二年前に私が失踪した時、お兄様はあえて私を探さなかった。そうでしょう?」
兄の振り絞るような絶望とは裏腹に、妹はあっけらかんとして対話する。
白い足を少し揺らし、涼しい風に心地よさそうに身を委ねながら。
「それは……そうだ。瑠菜が奴らに狙われていたから……俺が探しに行けば、また追いかけてくると思った。今回が現にそうだった」
旭は目を伏せる。
兄妹は八咫烏にいながら、何か事情があるのだろう。
それは嵐も知っているのか、悔しそうに握った手が揺らいでいる。
「でしょう。それに、私は不幸なんかじゃないわ」
達観したような目をした瑠菜は、兄の言葉を静かに否定した。
そんな彼女の前に、ずんずんと嵐が歩み寄っていく。
瞳の中に彼女だけを映して、衝動的に。
(この人、瑠菜さんが好きなのね……)
恋愛に疎い日向ですら、その熱烈な好意に気付かされる。
近くで視線を合わせるだけで、彼は赤くなって言葉に詰まっていたからだ。
「俺はお前に何が起こってたのか、分かってた。何も出来なくて……悪かった。だが、もう呪いは解けたみたいなんだ。そこの日向って奴に殴られて、自由になったんだ」
「そう。それで……?」
「俺が瑠菜を苦しめた奴らを皆殺しにする。瑠菜がツクヨミに捧げてたって、それでもいい……一緒に戻ろう。今ならまだ、間に合う。法じゃ裁けねぇよ……瑠菜は悪くねぇからさ!」
嵐の言葉は整理されていなくて、複雑な感情を顔に出して手を差し伸べる。
瑠菜が罪を重ねないために、男としての気持ちを遠回しに伝えながら――。
そこに少しでも気持ちがあれば、揺らいでいてもおかしくはないほど、情熱的に。
だが、瑠菜は微動だにしなかった。
ただ申し訳なさそうに目を伏せ、首を横に振る。
「ごめんね。貴方に呪いをかけたのは……私なのよ」
淡い気持ちすら裏切るように、瑠菜はそれから冷静に嵐を見上げた。
「は……?」
硬直する嵐。
差し伸べた手は、そっと落ちていく。
これまで、彼は呪いをかけた相手が誰だか知らず、瑠菜を追い詰めた中の誰かの仕業だと思ってきた。
「小さい頃、命令を受けてね。スサノオを従わせろと……日向ちゃんなら、無意識に解除できると思ったの。正解だったようね」
心が吹き荒れるような嵐を置いて、瑠菜は穏やかに日向を見た。
その眼差しが向くことを望んでいたのに、今の日向は嬉しいと思えない。
だからと言って、推しを嫌いになることもできなかった。
「もしかして、私は……瑠菜ちゃんを選んでたんじゃなくて、選ばれてたの……?」
何が何だか、もう分からなくなる。
きっかけは、確かに偶然見かけた動画からだった。
接触はしていないと思うから、記憶は操作されていないはずだ。
「私が貴女を探してたの。アマテラス……ツクヨミ様の妹。記録では姉だとされているけれど、実際は逆なんですってね」
余裕なさそうにする日向に、瑠菜は微笑んだまま答えた。
(瑠菜さんは、ツクヨミに心酔しているの……?)
彼女が語った事実に、日向はショックを受けた。
大好きな推しは、日向自身を激励していたわけではないのだ。
あの日々は嘘だったのかも知れない。
「シンシア……いや、瑠菜さん。ツクヨミはどこにいるの? 貴女、そいつに誑かされてるんじゃないの?」
旭の話では――ツクヨミは力を失っているが、瑠菜の力で取り戻すことができるということだった。
その神のせいで瑠菜がこんなことになっているのなら、まだ間に合う。
ツクヨミさえ何とかすれば、推しを取り戻せる可能性があるのだ。
本物の彼女を見ても嫌いになれない日向は、期待するように瑠菜を見つめる。
「そうだな、瑠菜。ツクヨミなんかの言うことを聞くな。俺は前世の記憶とか、そんなにないけどさ……そいつは残忍な神だったことは理解してる。頼むから、自分を傷付けないでくれ」
瑠菜の傍で何とか説得しようとする嵐は、日向の言葉を借りながら切実な目で懇願する。
かつて、アマテラスはツクヨミを拒絶した。
スサノオは兄と直に会わずして、アマテラスの意向に従った。
日向と嵐は会ってそんなに時間は経っていないが、ツクヨミへの漠然とした拒否感は一致している。
すると――瑠菜は岩の上から降り、石碑の前に立った。
「彼のことを何も知らないのに、酷い言われようね」
歩幅が小さく、どこか不自然な歩き方をしているように見える。
体型は羽織で隠されているが、華奢なわりにシルエットが大きく見えた。
(あれ、この歩き方、どこかで……)
その違和感に気付いたのは、日向だけだった。
「ねぇ、ツクヨミ様。そう言われているわよ……貴方の妹と弟は、今生でも貴方を孤立させたいみたい」
皆に背を向け、月を見上げて瑠菜は呟く。
ツクヨミが今、どこにいるのかは誰にも分からない。
三貴子の中で、彼だけは未だ神として存在し、人間に転生したわけではない。
月を見上げて呼べば、出てくるかも知れないと――旭や嵐は身構える。
すると、ずっと黙っていたヤハンがいきなり笑い始めた。
「あはは、面白いね!」
とは言え、彼のイカレ具合は周知済みなので、誰も気に留めない。
「何がおかしいのよ……このサイコ野郎」
ただ苛立った日向は、口をついて言葉が出て、ただ睨んでいた。
彼はいつの間にかグッズの数々をしまっており、瑠菜のもとに近寄って行く。
「ちょっ……!」
そんなヤハンを引き留めようとしたが、日向はふと考えた。
月読神社に潜伏していた、謎の男。
他国のエージェントという身分も、本当かどうかよく分からない。
何より先刻の言葉の合致――同じ状況に対する、介錯という比喩。
慈悲だとか、他にも言い方はあるのに、そこが重なったことが引っ掛かってくる。
「おい、瑠菜に触んな」
嵐がヤハンから守ろうとするが、背を向けていた瑠菜はそんな彼らを振り返った。
「瑠菜……?」
大きな羽織の前を開け、着物の全容を曝け出す。
体は華奢で小柄なのに、明らかに膨らんだ腹。
帯は少し下の方でゆるく結んであり、その膨らんだ部分に乗っかる形になっている。
(そうだ、あの歩き方は……)
日向は瑠菜の歩き方の既視感を、そこでようやく思い出した。
営業の仕事をしていた時に話をした――妊婦のそれだったのだ。
皆がゾッとして、沈黙が流れる。
嵐は青ざめ、崩れそうなのを何とか堪えていた。
もはや、ヤハンが瑠菜のもとに向かうのを、止める気力もないほどに。
「この子ったら、よくお腹を蹴るの。あと数日で産まれるものね」
愛しげにお腹に手を置く瑠菜は、周囲を置いてけぼりにして子どもに話しかける。
「触ってもいい?」
何を思ったのか、ヤハンは瑠菜の前に現れ、優しい表情で彼女を見下ろした。
「お前……っ!」
嵐が止めようにも、その手は払われる。
「僕の花嫁だよ」
冷たい目で嵐を睨むと、ヤハンはすぐにまた愛情に満ちた目を瑠菜に向ける。
「ツクヨミ様、こっちよ」
「ヤハンって呼んでよ。君が付けてくれた名前じゃないか」
「そうね……“夜半”、私の唯一の伴侶」
突然現れた変人に驚くこともなく、瑠菜は愛しげな顔をしたまま、ヤハンの手を取って自身の腹にあてがう。
二人の世界での、和やかな会話。
答えはもう、出たようなものだった。
視線を交わし合う二人は、歪んでいながらも互いを想っているようにしか見えない。
嵐は目に見えて呼吸を乱し、二人の様子から目をそらしていた。
旭はただ、血の気が引いていく。
妹が神と交わっただけでなく、神の子を妊娠している事実に戦慄きながら――。
「有り得ない……神と人の子など……」
動揺し、旭もブツブツと呟くことしかできなくなる。
「騙していたんですね……モリヤさん。いいえ、ツクヨミって呼ぶべきですか……?」
怒りを抑えながら、日向はようやくふらりと立ち上がった。
嵐も旭も、心が削られすぎて何も言えないようだ。
日向だって再起不能なくらい突き放されたが、一言くらいは言える余裕はある。
「どっちでもいいよ。二人をここに連れてきてって頼まれたから、そうしただけさ。呼んでもないのに、まさかスサノオまで来るなんてね」
平然と瑠菜を後ろから包み込むようにして、ヤハンは言った。
彼は大きいので、小柄な瑠菜との身長差は三十センチ以上ありそうだ。
どこか神秘的で、日向は満月を背にする二人に、図らずとも息を呑んでしまう。
「他国のエージェント……嘘っぽいけど、一応は信じてました」
「あそこで正体を明かすわけにもいかなかったしさ」
「罪悪感すらないようですね」
「僕にとっては正義だから。君にはまた、拒絶されたけど」
いつものような胡散臭い笑顔は捨て、ヤハンは穏やかで低い声を出す。
「そして、私にとっての正義でもあるの」
何千年も孤独に存在していた月の神を、瑠菜は受け入れるように手を伸ばした。
白い指先が、彼の淡い金髪に触れる。
まるで新婚夫婦のような二人に、誰も言い返す気力などなかった。




