身の丈に合わない付き合い
二十年以上前のことだ。
自分の輪郭がまだ曖昧で、
自信より“揺らぎ”の方が勝っていた頃の話。
元カノには妹がいた。
当時レースクイーンをしていて、雑誌にも出ていた。
言ってしまえば “ステージ側に立つ人” だった。
私は自営業で、そこそこ金回りはよかった。
ただ肩書きで光るタイプじゃなかった。
その妹には、大学病院に勤める彼氏がいた。
肩書きだけで周囲が「すごい」と言いそうな存在だった。
私はというと「ふーん、そうなんだ」で終わる。
尊敬や羨望じゃない。
自分の価値観とつながらない、つまり興味がないのだ。
という意味での“ふーん”。
それでも、
元カノと、その妹と、その彼氏と、私の四人で
有名歌手のディナーショー に行った。
ホテルの照明は落ち着いて、
銀食器は冷たく、
テーブルクロスにはアイロンの匂い。
四人で同じ席に座っているのに、
私だけ一段だけ高さの合わない椅子に座っているような感覚があった。
また大手ホテルで食事もした。
高級中華料理屋だった。
円卓の回転がゆっくりと視界を横切る。
料理は美味しかったはずだが、味はもう覚えていない。
それより “自分の内側と外側のズレ” のほうが気になっていた。
似合わない場所にいると、
食事の味より、空気の重さが口に残る。
不思議なことに、
華やかなイベントや肩書きの強さよりも、
その 蛍光灯の下の仕事 のほうが、
ずっと自分に近かった。
紙の束をめくる音と、キーボードの小さな打鍵音。
誰に見られなくても、やることがある場所。
そこで過ごす時間は、肩書きや場所の格より
見合っていた。
医者という肩書きにも、
レースクイーンという華やかさにも、
羨望は湧かなかった。
嫉妬もなかった。
嫉妬ってのは、
「自分もそこに立ちたい」という願望がどこかにある証拠だ。
私は 自分がそっちでたつ姿が見えなかった。
だから、興味が湧かなかった。
ただ、未熟ではあった。
自信がなかったし、
“自分の場所” を掴めていなかった。
だから、似合わない席に座り、
似合わないグラスを持った。
背伸びというより、
足場を探している最中だった。
いま振り返って思う。
あれは必要な違和感だった。
経験して、反省して、
「合わないものは合わない」と
自分の口で言えるようになるのに、
あの時間が必要だった。
いま誘われても
有名歌手のディナーショーには行かない。
ホテルディナーもしない。
お金の問題じゃない。
自分の時間を使う場所がはっきり分かったからだ。
昔は
「経験のため」と言い訳して場に出た。
でも今は
自分で決めた場所にしか行かない。
蛍光灯の下で書類を直していたほうが
よっぽど生きている気がした――
その感覚は今でも変わらない。
人を肩書きで見ることはない。
資産家でも地主でも、
商談になると ただのお客さん だ。
医者だとか社長だとか、
そういう言葉に心が動かない。
私にとって人の価値は
話が合うか、仕事ができるか、
別れたときに心が軽いか。
それだけだ。
届かなかったものに未練はない。
手を伸ばしたいと思わなかった、
という事実に気づくまで時間がかかっただけ。




