制度は善意で壊れる
制度というものは、不思議なもので、普段はほとんど意識されない。
役所の書類も、台帳も、法律の条文も、生活している限りは背景に沈んでいる。
ところが、人生で一度か二度、必ず「本気で助けられる瞬間」が来る。
相続だ。
私は相続の当事者になったとき、正直なところ何も分からなかった。
戸籍も、除籍も、改製原戸籍も、見ても意味が分からない。
だが弁護士は淡々と辿っていった。
この人が誰で、誰の子で、どこで生まれ、どうつながっているかを、一本の線として。
そのとき初めて気づいた。
戸籍は「分かりやすい制度」ではない。
だが「壊れにくい制度」だ。
もしこれがなかったらどうなるか。
金持ちの家の爺さんが亡くなった、というニュースが流れた瞬間に、
「私、隠し子です」
という人が山ほど名乗り出てくるだろう。
証拠は何かと聞けば、
母がそう言っていた、
昔一緒に住んでいた、
写真がある、
証人がいる。
全部それらしく聞こえる。
戸籍がある世界では、これらは通らない。
戸籍がない世界では、全部が争点になる。
そして最後に勝つのは、真実を知っている人ではない。
金がある人、声が大きい人、時間をかけて争える人だ。
戸籍は、人を管理するための制度ではない。
揉めたときに、普通の人を守るための制度だ。
それなのに最近、「戸籍をなくせ」という主張を耳にする。
差別がある、古い、時代遅れだ、と。
問題提起としては分かる部分もある。
だが解決策が「なくす」なのは、完全に順番を間違えている。
運用を直す、記載を見直す、使い方を制限する。
やるべきことはいくらでもある。
制度を壊すというのは、
ブレーキを外してから、運転マナーを語るようなものだ。
外国人参政権の話も同じだ。
善意としての共生論は理解できる。
だが参政権は、主権そのものだ。
悪用されたらどうなるか、そこまで考えない提案は、制度論として失格だ。
制度は、善意で使われることを前提に作られていない。
ズルい人、抜け道を探す人、敵対的な存在が必ず現れる前提で作られている。
それでも壊れにくいように、何重にも設計されている。
だからこそ、制度は分かりにくい。
だからこそ、専門家が必要になる。
そして、だからこそ、普通の人が守られる。
制度を疑うことは大切だ。
だが、制度を壊す前に考えなければならない。
それがなくなったとき、
一番困るのは誰か。
一番得をするのは誰か。
その問いを飛ばした改革は、たいてい善意から始まり、
静かに、確実に、社会を壊していく。
制度は善意で壊れる。
だからこそ、制度は冷たく、慎重でなければならない。
あとがき
ここで言ってきたことは、誰かを攻撃したい話ではない。
私はリベラルが嫌いなわけでも、人権や平等を否定したいわけでもない。
ただ、ずっと気になっているのは、
人権や平等を掲げる言葉の向こう側で、
「悪意」がまったく想定されていないことだ。
現実の社会には、必ず悪いことをする人がいる。
制度の抜け穴を探す人がいる。
国家レベルで、他国の弱点を突いてくる存在もいる。
それを前提に設計しない制度は、
善意の人のために作られているように見えて、
実際には、悪意の人を一番有利にする。
だから嫌われるのだと思う。
理念が嫌われているのではない。
現実を引き受けない態度が、信用されないのだ。
制度は、人の善意を試すためにあるのではない。
人の悪意から、普通の人を守るためにある。
この文章が、誰かの立場を変えなくてもいい。
ただ、「それ、悪用されたらどうなる?」と
一度立ち止まって考えるきっかけになれば、それで十分だ。




